9
―――カスパールがドアを開くと、そこには、血の気を失った男たちが、テーブルの周りに並んでいる。
カスパールが雨よけの外套を脱ぐよりも先に、男たちの一人が、「どうだった?」と問いかけてくる。押し殺した声。
「いや、足跡ひとつ見つからなかった。……たぶん、もう、村の中にはいない」
カスパールではなく、一緒に部屋に戻ってきた別の男が言うと、村人たちの間から、安堵とも絶望とも付かないため息が洩れる。
見つからなかった。その事実をどう受け止めればいいのか。とにかく、ドロテアを襲った獣はもう村の中にはいない。……だが、いつ戻ってくるか、分からないのだ。
「とにかく、ご苦労だった。座りなさい。……ヤンネ、飲み物を」
はい、と若い女が答え、部屋を出て行く。男たちは皆外套を脱ぎ、それぞれに席を見つける。外套を脱ぎ、湿った髪をかるく払うと、カスパールもまた、ほかの男たちに習い、席に着いた。
誰もが黙り込み、部屋の中には、陰鬱な沈黙と、かすかな雨音だけが響いている。
この村にもとうとう災厄が訪れた。並んだ村人たちの表情には、焦燥と恐怖がありありと浮かんでいた。
「―――あの娘は……」
「ドロテア・ベルツだったら、女たちと一緒に教会にいる。まだ生死は分からんそうだがね」
誰かが答え、誰かが「そうか」と一人ごちた。
少なくとも、まだ、わからない。無事かもしれない、とカスパールは自分に言い聞かせた。幼馴染のドロテア。花の咲いたような笑顔が脳裏をよぎり、すぐに、消えた。
彼女が最初の犠牲になるとは。カスパールはきつく唇を噛む。
しばし、陰鬱な沈黙が、場を支配した。やってきたヤンネがおずおずと熱いトディを配る。しかし、誰も手をつけない。ひとりがおずおずと言った。
「その、ただの狼の仕業じゃないのか?」
「いや」
だが、カスパールが、きっぱりと否定した。
「足跡を確かめたけれど、普通の狼は、どれだけ大きくてもあんなサイズにはならない。ほかの魔物という可能性もあるけれど、こんな人里にまで出てくるということは、人狼という可能性がいちばん高いと思う」
「そんなわけはない!」
だが、カスパールの言葉をさえぎるように、村長が、怒鳴った。
「この村には、けっして人狼は現れんのだ! 何かの間違いだ!」
若い男たちは、おどろき、振り返った。
壮年の村長の拳は、机の上で握り締められ、小刻みに震えていた。何がなんだか分からない。カスパールは眉を寄せる―――
「父さん、どうしてそんなことがいえるんだ? このあたりの村だと、どこでも、人狼の被害が出てる。この村だけ例外だなんて思えない」
「お前に何が分かる。とにかく、この村には人狼は現れない。そういうことになっているのだ」
あまりに頑迷な父の様子に、カスパールはいぶかしむ。だが、周りの男たちから、かすかに、同意の声が上った。
「ああ、そうだ……」
「何かの勘違いだろうよ。そうに違いない」
「たぶん、人の肉に味を占めた人食い狼だ。だったら、すぐに狩りに行かないと……」
カスパールは戸惑い、男たちを見回した。どれも壮年に近い男たち、この村で権力を持つ家長たちばかりだった。反論の出来る相手ではない。だが、この確信はいったいなんだ? カスパールだけにではなく、若い男たちの間に、いぶかしげな表情が広がる。けれども。
「人狼だろうが、ただの人食い狼だろうが、どうでもいい!」
怒鳴り声と共に、どん、と壁が叩かれた。
皆の視線がいっせいにそちらを向く。それは、怒りに顔を紅潮させた、ひとりの若い男だった。
「襲われたのは俺の妹なんだ――― 魔物だろうが獣だろうが関係ない! どうしてドロテアがあんな眼にあわなきゃならなかったんだ!?」
ブルーノ。ドロテア・ベルツの兄。近くで同意するように頷いているのは、同じく、ヘイズの家の息子たちだった。
「獣は殺せ! じゃないと、また犠牲が増えるばっかりだ!」
「そうだ!」
「そうだ!!」
男たちは次第にざわめきたっていく。色めきたった若い男たちに、現れたのは人狼ではないと確信している壮年の男たちが、ためらいながらも同意の様子を見せ始める。カスパールだけがひとり取り残される。戸惑い、混乱して、男たちの様子を見回した。
「ただの狼だったら、狩りに行けばいいんだ。みんなで行けば、老いぼれ狼の一匹くらい……」
「村の周りに罠をしかければいいんだ。たぶん、味を占めて、老いぼれのやつ、またやってくるに違いない」
「夜中のうちに狩りたてろ。なあに、女子供ならともかく、俺たちみんなでかかれば大丈夫なはずだ」
彼らはいったい何を言っているのだ、とカスパールは困惑した。なぜ、認めない。あれが人狼の仕業だと?
「ちょ、ちょっとまってくれ、みんな!」
カスパールはあわてて声を上げる。
「あれは人狼の仕業なんだ! だったら、こっちから出て行くのがどれだけ危険かわかるだろう!?」
だが、そんなカスパールに、ちかくに座っていた男が、馬鹿にしたように鼻をならす。
「おい、カスパール坊。お前さん、騎士の見習いだかなんだか分からんが、王都で暮らしてるお前さんに、この森のことはわからんよ」
「そうだ、そうだ。森のことは、森の傍に住んでる俺たちが、いちばんよく分かってる」
まるでちいさな子供をなだめるような調子に、カスパールは声を失う。彼らは何を言っているのだ?
彼らだって見たはずだ。あの、大きな足跡を。
大人の男の手のひらよりも大きな足跡。仮にそんな狼がいるとしたら、大きさはほとんど牛並みのサイズだということになる。そんな狼が、ただの狼だということがあるとでも思うのか?
そのうえ、襲われたドロテアの体は、ちかくの椎の木の枝の上に、ひっかかっていたというのだ。7フィートもある木の枝の上に。そんなところまで獲物を持ち上げることの出来る狼が、どこの世界にいるというのだろう。
まして、ドロテアは、片腕をもぎ取られただけだった――― 並みの狼だったなら、獲物を襲うのは餌にするためだけのためだ。食らうためではなく、ただ、いたぶるためだけに獲物を襲う。それは、普通の狼のすることではない。
なぜ、みんな、信じようとしないのだ――― そう思いながら人々を見回していて、カスパールは、おぼろげに、恐ろしい想像に思い当たる。
皆、信じたくないのではないか。とうとうこの村にも、人狼が現れたのだということを。
もしも人狼があらわれたのなら、ただの人間には、抵抗する術はほとんど無い。人狼は、ただの武器では傷つけることができず、並みの人間以上の狡猾さを誇る。体躯はほとんど牛並みの大きさを誇り、人間の上半身をたったの一噛みで噛み砕いてしまう。
「よし、では、自警団を組織しよう」
カスパールが声を失っていると、村長が、重々しい声で言った。
「皆で弓矢や武器を装備し、村の周りを巡回するのだ。そして、今度の満月の夜に、ちかくの森まで狼狩りに行く――― 大丈夫だ。これだけの人数がいれば、老いぼれの人食い狼など物の数ではない」
「そうだ!」
「よし、やろう」
男たちは立ち上がり、口々に同意する。カスパールは絶句する――― ふと、肩を叩かれる。
「おい、カスパール。お前も協力してくれるよな?」
傍らには、ドロテアの兄のブルーノ。……復讐の怒りにぎらぎらと光る眼で、カスパールを見下ろしていた。
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