10

 森は深く、暗い影だ。細かな鉛色の雨に濡れ、陰鬱に沈み込んでいる。
 足元に盛り上がった根を踏んで、少女は派手に転倒した。受身を取るまもなく倒れこむ。濡れた落ち葉が飛び散った。
「う……」
 何度目に倒れたのか、もう分からなかった。けれども少女は機械的なしぐさで起き上がる。近くの幹にすがってよろよろと立ち上がると、再び、森の奥へと歩き出した。
 黒々と濡れ、節くれだった木々。頭上を覆う分厚い樹冠。足元には深く草が茂り、木々の幹には毒々しい色の茸が光った。道などは初めから無い。けれど、少女は、よろめきながら森の奥を目指す。
「うう…… う……」
 あえぐ息と同時に、うめき声が洩れた。涙はとめどなく頬を流れた。無残に腫れあがった顔と、青黒く膨れ上がってふさがった片目。固まった血のこびりついた唇。
 どこを目指しているのかも分からなかった。身体は泥まみれ、びしょぬれで、ほとんど泥で作った人形のようだ。森は広大で少女は小さい。よろめく足に下草と根が絡みつき、行き先を阻む。まるで、森自身が少女を拒むように。
 だが、どれだけ森が拒んだとしても、戻れるところはもう無いのだ。だから、少女は、目標も定めずに闇雲に進む。森の奥へと。人が足を踏み入れることの無い、『暗い森』の奥地へと。

 ―――わたし、しぬのかなあ。

 疲労と痛みに朦朧とした思考のなかで、少女は漠然とそう思う。
 頭の中に焼き付けられ、ぎらぎらと光っているのは、突きつけられた肉切りナイフの切っ先であり、伯母の狂気じみた眼の色であった。なぜ伯母があんな眼で自分を見るのか、少女にはまったく分からなかった。
 理由は分からない。少女はいつでも憎悪されていた。あの伯母から。
 食事が無いことも、寒さから身を防ぐことや、雨風をよけることができないのは、すべて、あの伯母がそう望んだからだ。少女にとって、伯母はゆいいつの庇護者であったのだし、たとえそこになんの情が無くとも、最低限生きていくことができるだけのものを提供してもらえれば十分だったはず。情愛などは初めから期待したことなんて無かった。けれど、今日、その最低限の前提まで裏切られてしまったのだ。伯母はさんざん少女を打ち据えた上、肉切りナイフで殺そうし、唯一、自分に同情してくれていたと思っていたドロテアさえ、少女を暗い井戸の底に突き落とした。

 ―――わたし、なにか、わるいことをしたのかなあ。

 片目が腫れあがり、ふさがって、視界が半分しか無い。片手にぶらさげた籠の中にも雨水はしみこんで、カビの生えかけた菓子が湿っていた。
 これを渡したということは、きっと、菓子を食べて生き延び、できるだけ森の奥まで行き、そこで野垂れ死ぬか、野獣の餌食になれということなのだろう。
 何かを思う気力も無かった。ただ、かなしかった。いいことなんて何も無いまま、このまま私は森で死ぬ。誰かの手のぬくもりも、温かいスープの一皿も知らないまま、こんな薄暗い森の中で。
 ただ、ひとつだけ思い出すのは、やさしい青灰色の眼だった。
 後ろから抱きしめられるぬくもり。おだやかな声。チビちゃん、と優しく呼んでくれた。
 カスパールさんは、わたしがいなくなったら、気づいてくれるかなあ、と少女はぼんやりと思った。
 気づいてくれるといい。探してほしいとは思わないけれど、すこし心配してほしい。それくらい考えたって、ばちは当たらないはずだ。ほんの少し、家畜が愛される程度の愛をもらうことくらい、少女にだって、望むことはゆるされるはずだ……
 そのとき、足元が、ずぐりと崩れた。
「きゃ……!!」
 短い悲鳴が途切れ、少女は、急な斜面を転がり落ちた。
 不安定な地面。枯れた下草に濡れ落ち葉が積もって、地面のように見えていたのだ。粘土質の斜面をいっきに転がり落ちた少女は、頭から沼につっこんだ。水音が響いた。
 何匹か、おどろいたカエルが沼を飛び出していき、頭上で鳥が飛び立った。ばさばさという羽音が過ぎると、また、沈黙が戻ってくる。鉛色の霧雨と、森の暗がり。
 粘る泥が、重苦しく身体にまとわり付いた。沼は浅かった。体が沈み込むことも無い。だが、少女にはもう、起き上がる気力も残されていなかった。
 やわらかく冷たい泥のなかに、仰向けに倒れたまま、少女は、ぼんやりと頭上を見上げた。
 黒い闇になった樹冠。音も無く降ってくる雨。そして、灰色の空。
 泥はやわらかく、まるで、身体を包み込んでくれるようだ。あたたかいベッドに横たえられたような錯覚。錯覚だということは分かっていた。だが、もう、少女はそれに身を任せることにした。
 もう、いいや。ここで休もう。
 腫れあがった顔にも、濡れた髪にも、沼の黒い水がひたひたと打ち寄せる。何の音も聞こえない。少女は目を閉じた。二度と眼を開けることは無いだろうと思いながら。

 だが。

 オオオオ…… オン。

 遠く、何かの声が聞こえる。
 なんだろう? かすかにいぶかしく思う。そのとき、ぱしゃん、と小さく水音が聞こえた。
 少女は目を開けた。金茶色の眼。そして見た。
 数匹の狼が、沼の水を踏んで、ゆっくりと、近づいてくる。
 狼たちの毛皮は水を弾き、こまかな水滴が、黒に近い灰色の毛並みに光っていた。金色の目。大き目の犬くらいの大きさに、犬がけして持ちえない野生の優美さをそなえたしぐさ。
 少女は短く息を呑む。ちかくに浸っていた倒木を掴み、反射的に起き上がった。
 狼の中でもとりわけ大きな一頭が、ゆっくりと頭をめぐらせて、少女を見た。少女は息を止める。森の狼。
 群れというほどの頭数はいない。大きい一頭は王のようで、ほかの狼たちを従えているように見えた。王の狼は少女に近づいた。そして、忠実に地面に腰を下ろした。よくしつけられた猟犬のように。
 狼は、おだやかな眼で、少女を見つめた。金色の獣の目が、金茶色の眼を見つめる。
「おまえ……」
 そして、少女は、気づいた。その狼に見覚えがあるということに。
 片耳がちぎれて、半分くらいの大きさしかない。そんな耳の狼を以前見たことがあった。そうだ、木苺を摘みに、森の傍まで行った時のことだ。
 あのとき、あの狼は、おとなしく少女の手を舐め、胸に前足を置いた。もしも、この狼が、あのときの狼と同じだったとしたら。
 少女はためらい――― おそるおそる、手を差し出した。
 泥まみれの小さな手を、狼は、あたたかく湿った舌で舐めた。
 あのときの狼だ、と少女は確信する。同時に頭が混乱した。なぜ、狼が、こんな風に人間に懐いたりするんだろう?
 とまどっている少女のすぐ傍までやってきた狼は、今度は、唇の端に固まった血を舐めた。そして、少女に背中を向ける。ふさふさとした尾を軽く振った。乗れ、というように。
 少女はためらった。何かがおかしい。この狼は、普通ではない。
 もしかしたら、この狼は、魔物なのではないだろうか―――
 だが、すぐに心は決まった。
 もとから、狼に食われるか、野垂れ死にをするかのつもりで来た森だ。その相手が魔物だろうが悪魔だろうが変わらない。とにかく、この狼についていけば、どこかしらにはたどり着けるだろう。そこがどこであったとしても。
「のっても、いいの?」
 少女がおずおずと問いかけると、狼はかるく尾を振った。かまわない、というように。
 少女は泥沼から起き上がると、泥まみれになってしまった籠を拾った。そして、恐る恐る、狼の背にまたがる。荒い毛皮は深く暖かい。
 少女が狼の首につかまると、狼は立ち上がる。ほかの狼たちも従った。数頭の狼たちは、悠然と、歩き出す。
 森の奥へ。さらに奥へと。
 木々はさらに古さをまし、節くれだった幹の影が、奇怪なシルエットを描いていた。頭上から降ってくる細かい雨。深く積もった朽ち葉。腐った倒木の上にはつやつやとした茸が生え、蜘蛛の巣にビーズのような水滴が光る。
 狼は細い川を渡り、木々の途切れた小さな花畑をよぎった。少女は腐りかけた杭が並んでいるのを見た。やがて、足元に、砕け散った古い石畳の跡が見られるようになる。あきらかに、かつて、人が暮らしていたという跡だった。
 だが、人々の痕跡もまた、こともなく森に飲まれた。頭上の枝を小動物が渡り、太い木の幹には熊の爪あとが残っていた。暗い影には小さな白い蛾が舞っていた。石の上には深く苔が生え、そこにはいまだかつて、人が足を踏み入れたことが無いということを示していた。

 やがて。
 
 狼が足を止めた。少女は、おずおずとその背から降りた。
 目の前に、あらわれたもの。
 ―――それは、朽ちかけた、ちいさな家だ。
 崩れかけた石組みと、木皮の屋根を覆う苔。建物は斜めに傾き、巨木に抱かれて、今にも崩れ去ってしまいそうだ。だが、その煙突からは細く煙が上がっている。誰かがそこに暮らしているという証拠だった。近くにはちいさな畑があり、何種類もの香草が植えられていた。
 思わず振り向くと、片耳の狼は、少女に向かって尾を振った。入れ、というように。
 ためらいながら、少女は、家の前に立った。そして、戸を叩いた。
「すいません……」
 戸が開き、あたたかな色のあかりが、少女を正面から照らした。
 少女は目を細めた。戸を開けたのは、ひとりの老婆だった。小柄な老婆だ。暗い色の古びた服。白い髪。だが、その瞳の色は、まるで狼のような金色だった。
 奇妙な老婆は、まじまじと少女を見詰めた。少女は、どもりながら、必死に言葉を考える。
「あ、あの、すいません……」
 だが、その言葉は、すぐに途切れることとなった。老婆が、無言で少女を抱きしめたからだ。少女はひどく驚いた。
「あ、あ、あの……?」
 おどろき、戸惑う少女を、けれど、老婆は両腕に力を込めて抱きしめる。あたたかい胸。香草の匂い。
「いい子だ。よく来たね。ずっと待ってたよ」
 低い声でそう言うと、老婆は、やっといったん腕を解く。そして、今度は、少女の肩をつかみ、まじまじと顔を見つめた。表情が崩れ、老婆は、ふたたび少女を抱きしめた。
「ああ、なんてひどい顔なんだろう。かわいそうに。寒かったろうね。さあ、お入りよ」
「え、え」
「お湯を沸かしておいたよ。身体を洗って、あたらしい服を着よう。そうしたら、すぐにあったまるよ。怪我の手当てもしてあげようね。それに、お前のために、おばあちゃん、おいしいスープを用意していたんだよ」
 おばあちゃん、だって?
 金茶色の眼を丸くしている少女に、老婆は、泣き笑いのような顔をして、「ああ」と声を上げた。
「ああ、そうか。あたしが分からないんだね。会ったこともなかったものね……」
 老婆は、ぎゅっと、ひときわ強く、少女を抱きしめた。そのぬくもり。
「あたしはね、お前の母さんの母さん…… お前のおばあちゃんだよ」
 少女は、ただただ、目を瞬いた。





 小さな小屋の中には、鉄のなべの中でシチューが煮える、香ばしい香りが立ち込めていた。
 糸が掛けられたままの織機。みたこともない模様を織り出したタペストリーが石の壁を覆い、調度は削り出されたままの丸太のままだった。だが、ベッドには新しい藁が積まれ、やはり織り模様の大きなカバーが架けられている。そして、かまどのそばには、乾燥させた香草の束が、いくつも、いくつもぶら下がっていた。
 少女は、香草の香りのする湯で顔と身体を洗われて、あたらしい服を着せられた。顔にはべたべたする軟膏を塗られ、腫れてふさがってしまった眼には布が当てられる。そして、ごわごわする羊毛の敷物に座らされると、木のボウルに入ったスープと、蕎麦の実の粥を勧められた。
 はじめ躊躇っていたけれど、独特だが香ばしい香りにさそわれ、ひとくち匙を口に運ぶと、もう、止まらなかった。少女は夢中でスープを飲み、粥をすすった。
 何種類もの茸と何かの肉の入ったスープは、何種類もの香草と岩塩の作り出す複雑な味がした。轢き割りにした蕎麦の粥は温かかった。あっというまに平らげてしまう少女に、老婆は、にこにこと笑いながらお代わりをよそった。何杯もスープを飲み、粥を食べると、ようやく、腹がいっぱいになる。そうして、ようやく腹をいっぱいにすると、やっと少女は我に返る。
「あの……」
 木の匙を下ろし、おずおずと顔を上げると、「なんだい」と老婆は答えた。陶製のコップに、熱くした果物酒を注ぎながら。
「山葡萄の酒は苦手かい? 香草は入れてもいいかねえ」
「あ、ありがとうございます。……あの」
「あたしが、ほんとうにお前のおばあちゃんか、って聞きたいのかい?」
 皺に埋もれた老婆の目が、すこしばかり哀しそうに笑った。
「そうだよ、お前のおばあちゃんだよ。会ったことは一回もなかったけどね、あたしはずーっとお前を見守っていたんだよ」
 信じられない言葉に、少女は少し、声を詰まらせた。
 伯母は、祖母が森の奥にいると言ったけれど、それは嘘だとばかり思っていた。こんな森の奥で、老婆がひとりで暮らしていけるはずが無いからだ。
 真っ白い髪をお下げにした老婆は、頭に刺繍の頭巾を被っていた。このあたりの農民とは違った風俗だった。そういえば、少女の渡された服も、みたことのないつくりをしている。頭からすっぽりと被る厚手のワンピースと、その下に履くたっぷりとした生地のズボン。
「お前は知らなかったのかね。お前の母さんは、もともと、森で暮らしていたのさ」
「もりで……?」
「そう。でも、お前の父さんに惚れて、森を出たんだよ。でも、あたしは娘が…… お前の母さんが心配だったから、こうやって村のそばで暮らしていたのさ。そばといっても、まあ、それなりの距離はあるけれどもね」
 手渡された素焼きのカップからは、甘い香りと同時に、香草の独特の香りがした。ためらいながら口を当てると、蜂蜜の甘さが喉にやさしい。こんな美味しいものを飲んだのは初めてだ、と少女は思う。
「あの、さっき、狼が……」
「狼って、お前を案内してくれた『裂け耳』のことだね?」
「『さけみみ』?」
「あいつは片耳が裂けているだろう。昔、群れのボスと決闘をしたときにやられてしまったのさ。賢くて力強い、いい狼だよ」
 言いながら立ち上がると、老婆は、小窓を開ける。ほら、と示されるまま、少女も外を見る。―――小屋のそば、巨木の下に、何頭かの狼がうずくまっているのをみて、はっと息を呑んだ。
「狼……」
 うちの一頭がこちらに気づき、顔を上げると、ぴくんと耳を動かした。その耳の片方が半分裂けて千切れていた。さっきの大きな狼だった。
「あたしは村には近寄れないから、あいつにたのんで、お前を迎えに行かせたんだよ。ちょっと驚かせたかもしれないけど、ちゃんと案内してくれただろう?」
 老婆が眼を細めて笑うと、金色の瞳は皺に埋もれてしまった。大きな手が少女の頭をなでた。まだ濡れた髪をなで、指でとって編み始める。
「いつになったらお前を迎えにいけるかって、あたしはずっと思ってたんだ。ずーっとお前と暮らしたかったんだよ」
「わたしと?」
「だって、お前はあたしの大事な孫だもの」
 老婆の器用な指が、少女の黒髪を、丁寧な三つ編みに編んでいく。それを感じながら、少女は、信じられない思いで、手にしたコップの中を見下ろす。まだ少しだけ残っている果実酒が、少女の顔を映し出していた。切れて腫れた唇と、布で覆われた片目を。
 信じられなかった。まさか、自分を待っている人が――― 探している人がいたなんて。
 手にしたコップの中に、一滴の涙が、ぽとんと落ちた。
「お前?」
 髪を編み終えた老婆が、いぶかしげに顔を覗き込んだ。少女はひとつしゃくりあげる。すると、涙が止まらなくなった。
「……っ、……っつ!」
 片方きりの目から、ぽろぽろと、涙がこぼれはじめる。涙はちいさなしずくになってこぼれ、藍色の服へと転がり落ちていく。
 温かい涙だった。いままで感じたことの無い涙で、少女には、どうしたらいいのかが分からなかった。ただ、顔を覆うことも、涙をぬぐうこともせずに、しゃくりあげるようにして、声を殺してぽろぽろと泣いた。
 老婆は、そんな少女を見、いとおしむように笑って、そっと髪をなでた。
「お前に名前をつけてあげないといけないね」
 老婆は、やさしく、子守唄のような節をつけて、言った。
「いつまでも『お前』じゃ困るもの。お前はあたしの可愛い孫だものねえ……」
 黒髪をなでさすられながら、少女は、何回も頷いた。返事は出来なかった。ただ、ぽろぽろと泣き続けた。しゃくりあげ、声を殺して、泣き続けた。
 
 ……それが安堵の涙だということすら、まだ、少女は、知らなかった。




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