8


 
 ……くらい ……つめたい
 こわい……
 たすけて…… だれか……
 
 ……たすけて


 少女は、目を覚ました。


 うっすらと眼を開くと、薄い闇が視界に広がっていた。
 ここはどこ。井戸の中?
 ぼんやりとそう思いかけ、反射的に握り締めた拳が、腐りかけた藁を掴む。少女は目を開いた。
 灰色の丸石を積んだ壁。湿った藁。動物の臭い。
 ここは、馬小屋の片隅。
 少女は、ぼんやりと目を瞬き、半身を起こした。座り込んだ姿勢のまま、ぼんやりと周囲を見回す。
 薄暗い小屋。近くには荒い木材で仕切られた馬房、年老いた農耕馬。おとなしい眼でこちらを見ている馬をしばらく見上げていて…… ようやく少女は、我に帰る。同時に、おどろきに眼を瞬いた。
 ここは、いつも暮らしている馬小屋の片隅だ。なぜ、こんなところにいるのだ?
 湿った藁の寝床から起き上がると、髪や体についていた藁屑がぽろぽろと落ちた。篭ったような藁のにおい。馬のにおい。いつもの場所。いつも少女がもぐりこみ、わずかな眠りと休息を得るための場所。
 頭がひどく混乱してた。少女は戸惑いながら馬小屋の中を見回す。
 ついさっきまで、少女は、井戸の中にいたはずだった。
 苔に覆われてぬるぬるした石組み。肩まで届く冷たい水。光の差し込まないまったくの暗闇。
 たよりになるようなものは何も無く、必死でしがみつこうとしても、苔むした岩にはまったく手がかりが無い。座ろうにも水が深く、暗い水が体温を徐々に奪っていく。気の狂いそうな恐怖。どれだけ叫んでも誰も気づいてくれなかった。あたりまえだ。家畜用の古井戸へと水を汲みに来るのは、少女だけの役目だったのだから。
 絶望的なまでに脱出不可能な牢獄。そのはずが、なぜ、こんな場所にもどってきているのだろう。
 もしやあれは夢だったのか? そんなはずはない。すべてが、焼きついたように記憶に残っている。最後にドロテアが投げつけていった、狂気じみた笑い声さえも。
 頭に触れてみる。濡れた黒髪が首にまとわりついていた。何も被っていない。いつもの古ぼけた頭巾がない。指先にはにぶい痛み。見ると、爪が何枚かはがれていた。無我夢中で井戸の内側をひっかいていたという証拠。
 そして、右の拳に、何かを握り締めているということにも気づく。おそるおそる手を開けると、そこには、銀色の鈴が光っていた。
 少女は、しばし呆然と、ちいさな鈴を見下ろした。
 濡れた髪。傷ついた爪。
 少女は困惑したが、けれど、安堵したのも事実だった。理由はなぜだか分からないが、とにかく井戸からは出られた。凍え死にも、溺れ死にもしないで済んだのだ。
 戸の外を見ると、細かい霧雨が降って、空は灰色だった。木々の緑が暗いシルエットに変わっていた。そして、なぜだか分からないけれど、人が叫び交わしているような声が、遠くから聞こえてくる。そして、重々しい鐘の音。
 教会の鐘が、ならされている。
 葬式だろうか? 少女は少し困惑した。何時くらいか。わからない。けれど、時を告げる鐘ではない。古い鐘の音は、長い尾と反響を響かせて、なり続けている。何かを警告するように。
 さっきから、わけのわからないことばかり。少女は困惑しながら外を見ていた。だから、気づかなかった。扉があくまで。
 ふいに、背後で、音を立てて扉が開いた。
 少女は驚き、振り返った。そこには、女がひとり、立っていた。
 灰色の衣を頭からまとい、こわばったような顔をした、痩せた女。
「叔母様?」
 少女を、女は、まっすぐににらみつける――― 少女は目を瞬く。ぎらぎらと光る、その眼。
 なかば狂気じみた表情の女は、しばらく、黙って少女をにらみつけていた。少女は困惑する。なんだろう。何があったんだろう。
「あの…… 叔母さま……?」
「……おまえ、どうして、ここにいるんだい」
 押し殺した声が、震えていた。
「いつのまにここに帰ってきたんだい。出て行ったんじゃなかったのか」
「え?」
 立ちはだかった女の姿は、薄暗い空を背に陰になり、表情が分かりにくかった。目だけが異様な光を帯びて少女をにらみつける。
 その表情は、

 くっきりと、憎悪。

「おば、さま?」
 次の瞬間、少女は、悲鳴を上げた。
「痛いっ!!」
 女が手を伸ばし、少女の髪をぐいと引く。軽い身体が浮き上がるほどの力。少女が驚きに声を失った瞬間、肉と肉のぶつかり合う、鈍い音がした。
 視界に、星が散った。
 何がされたのか分からない。熱い。少女は声を失った。衝撃に声を詰まらせる少女に、女は、凍りついた顔のまま、再び拳を振り上げる――― 少女の頬を、横から殴りつけた。ごきり、と音が響いた。
「―――っ!!」
 視界が再び真っ赤になり、雷鳴がひらめくように明滅した。暗くなる。わけがわからなくなり、ぐるぐると天地が回った。鉄錆の味。悲鳴の形に口が開いた。声は出なかった。
「この…… この、魔女め! 魔女!!」
 女は、ヒステリックに絶叫しながら、髪を掴んで吊り上げた少女の顔を、何度も、何度も拳で殴った。やせた小さな顔はたちまちのうちに真っ赤になった。遅れて、少女は、悲鳴を上げた。切れ切れの絶叫と同時に、血が唇から滴った。
「いやぁ! いやぁぁぁあ―――!!」
「うるさい!」
 女は、すさまじい力で、髪を引きずって、少女を馬小屋から引きずり出す。泥と闇。鉛色の雨。その間も少女は悲鳴を上げ続けていた。だが、その声が、ふいに、途切れた。
 女が、少女の頭を、近くの池の中に、力任せに突っ込んだのだ。
 とたん、世界が、真っ暗闇に変わった。
 汚れてにごった水。何の前触れも無く頭を突っ込まれて、少女は、わけもわからぬまま、大量の息を、苦痛と共に吐き出した。 
「……! ……!!」
 痛み。衝撃。痛い。熱い。怖い。何が起こったのか。髪を掴んだ手は、まるで鋼のようで、少女が死に物狂いでもがいてもびくとも動かない。視界を無数の泡がよぎり、髪が藻のように顔に絡みついた。
 ぼこぼこと泡が立ち上る。少女はやせた手足を死に物狂いで振り回した。だが、女は、こわばった顔のまま、少女の顔を水の中へと漬け続けていた。ぶつぶつと、うわごとのように、つぶやき続けながら。
「魔女…… 魔女め…… 殺してやる…… そうだよ、もう、とっくの昔に、こうしておけばよかったんだよ……!!」
 やせて汚れた頬に、涙が、二本の筋になって流れ落ちた。血のように涙を流しながら、女は、少女の身体を押さえつけ、さらに深く、にごった池の中へと押し込んでいく。少女の手足の動きが、次第に緩慢になる。
 背中を押し付けられた虫のように、機械的に動く手足。女の口が裂けたように笑いの形を作る。なんて簡単なんだろう。こんな簡単に殺せるのなら――― 殺しておけばよかった――― そうすれば、こんなことになんて、ならなかったのに!
 だが、その瞬間だった。

 オオオオ…… オン。

 遠く、暗い森から、何かの声が聞こえる。
 女は、雷に打たれたように、身体を硬直させた。
 女の手が緩まる。開放された少女は、必死にもがき、女の手を抜け出した。

 ウォォォォ…… ォン。

 少女は、はいずるようにして、必死で、女の手から逃れた。
 雨は降り続き、少女の身体は泥と汚水でぐしゃぐしゃに汚れていた。地面にはいつくばったまま、少女は、飲み込んだ汚水をげえげえと吐いた。血と胃液が糸を引いて口元から滴った。
 頭が割れるように痛み、顔は酸をかけられたようだった。片目は開かない。眼が潰れてしまったのかもしれない。顎を開くと、ぼろりと何かがこぼれた。折れた歯だった。
 混乱しきった頭に感じていたのは、ただ、恐怖だった。―――殺される。
 だが、歩けなかった。逃げ出したかった。なのに、腰が砕けて動けない。少女は抵抗できないということに慣れすぎていた。だから、その場で頭を抱えてうずくまる。小さく丸まって、ただ、ごめんなさい、ごめんなさい、とうわごとのように繰り返す。
 女が緩慢な動作で振り返った。少女を見下ろした。
 ひっ、と少女は息を吸い込んだ。
「……ちくしょう」
 女は、食いしばった歯の間から、声を押し出す。
「そうかい。……そういうつもりかい。畜生! おまえが狼に喰われればよかったんだ! あの子の代わりにっ……!!」
 女は拳を振り上げた。少女は身体を硬直させ、反射的に頭をかかえる。だが、頭を抱えてうずくまり、小刻みに震える少女の上に、女の拳は、ついには、振ってこなかった。
 しばらく時間が過ぎて、少女は、ようやく、わずかに顔を上げる。顔を覆った手の間から女を見上げた。女は、彫像のように立っていた。鉛色の雨の下、その表情は分からない。ただ、仮面のようにこわばっているということだけがかすかに分かった。
 だが、その表情が、不意に、裂けた。
「……そうだ」
 少女は身体をびくりと震わせた。裂けたような笑み。狂気じみた表情で、女は、唇を吊り上げる。少女を見下ろした。
「いいことを思いついたよ、あかずきん」
 やがて、女は、きびすを返した。少女へ向かって、鞭打つように言い放った。
「そこでお待ち!」
 少女は、打たれたように、身体を震わせた。
 女は小走りに母屋のほうへと走っていく。その後姿を見つめる。少女は動くことも出来なかった。冷たい泥の水溜りの中、雨に打たれながら、座り込み続けていた。
 やがて、女が帰ってくる――― 女は、手にした何かを少女の前へと投げ出した。ばちゃりと泥をはね散らかして、少女の目の前に、古い籠が落ちた。
「あかずきん。いいことを思いついたよ。お前、おばあちゃんに会いたくないかい?」
 呆然としている少女に、女は、奇妙な猫なで声で語りかける。少女はのろのろと顔を上げ、籠を見た――― すっぱくなったワインと、ひからびた菓子。
「おばあ…… ちゃん……?」
「そうだよ。いままで黙っていたけどね、おまえのおばあちゃんは、あそこに――― 住んでいるんだよ」
 女が指差す方向は、雨に煙って見えなかった。だが、少女にはすぐに分かった。あの方向にあるものは……

 暗い森、だ。

 少女は、金茶色の眼を、裂けんばかりに眼を見開いた。
「やだ……」
「さ、それをもってお行き、あかずきん。お前はもうウチにはおいておけないよ。おばあちゃんと暮らすんだよ」
 女の顔には、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。少女ははいずるようにして女の傍ににじり寄ると、スカートの裾にすがりついた。
「や、やです。森に行きたくないです…… ここにおいてください……!!」
「うるさいよ!」
 女は、少女の足を振り払い、蹴り飛ばした。少女は再び泥に倒れた。
 だが、少女は、必死の思いで起き上がる。ふたたび女のスカートにすがりつく。無我夢中だった。森になど行けない。行きたくない。
 森には魔物たちが隠れる。人狼や魔女。魔物たち。
 こんな暗い雨の日に、ひとりで森になど行ったらどうなる? ……殺されてしまう!
 けれど。
「黙れ!」
 女が叫んだ瞬間、銀光がひらめいた。
 少女は目を見開いた。呆然とした。頬を押さえる。手を見る。
 べったりと、血に濡れた、手。
「さっさと行くんだよ! 森へ行けと言っているんだ!!」
 女はヒステリックに叫んだ。その手に握られているのは肉切りナイフだった。女はナイフを握りなおすと、その切っ先を少女へと突きつける。三日月のように、唇を吊り上げた。
「さもないと……」
 見開かれた少女の瞳に、女の、悪鬼のような表情が、写りこむ。

「今ここで、腹を割いて石を詰めて、井戸の中に放り込んでやる」

 明らかに、本気の、眼。
 少女は、よろめきながら立ち上がった。
 それでも、しばし、すがるような眼をしながら、女を見ていた。眼からぼろぼろと涙がこぼれた。だが、女はナイフを振り上げて、「行け!」と再び叫んだ。
 突き飛ばされるように、少女は、一歩を踏み出した。
 籠を拾い上げる。泥だらけになった籠。胸に硬く抱きしめて、もう一度だけ女を見て――― 
「行けって言っているだろう!!」
 少女は、打たれたように、飛び上がった。
 数歩、よろめくように歩き出す。足は速くなった。やがて、少女は走り出した。
 少女は、鉛色の雨の中、転がるように走り出す。その背中に、女の、狂ったような哄笑が突き刺さった。







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