11


 まさかこれを使うことになるとは思わなかった。
 カスパールはひどく苦々しい思いを抱きながら、王都から包んできた荷物を開き、一振りの剣を取り出す。革の鞘に入った長柄の長剣。
 鞘から抜き放つと、長剣の刃は鏡のように光った。白い刃には一点の曇りも無い。カスパールは手にした布で注意深く刃をぬぐう。白い刀身はただきらきらと輝いている。柄には魔よけの水晶が象嵌され、刀身には血曇をよけるための溝として、パルミット紋が刻み込まれている。両刃の刀身はこの上も無いほど澄み切って、水鏡よりもなお明るく、硝子鏡のようにカスパールの顔を映し出した。
 いくら村長の息子だといっても、ただの農村の一少年でしかなかったカスパール。そのカスパールが王国騎士団へと取り立てられた理由、それが、この長剣だった。
 ―――破邪の力を持つ、銀の長剣。
 通常、鋼よりも強度が劣り、重さで勝る銀でなど、剣を作ることはできない。もろい刃は物を斬るよりも先にこぼれてしまうだろうし、場合によっては刀身自体が折れてしまうことすらありうる。銀は魔よけの力を持ち、魔物を斬る力をもつにもかかわらず、武器にされない理由はそれだ。例外として銀で鍍金をした矢尻が用いられることはあるが、剣や槍、斧などの手持ち武器が銀で作られることはごくまれである。
 そのまれなケースに当てはまるのが、カスパールの持つ、銀の剣だった。
 ごく希少な鏡銀を用い、熟達した職人の技術を持ってのみ作り上げられるこの長剣は、同時に、奇妙な特性をも持ち合わせていた。魂を持たない物の身で、持ち主をみずから選ぶのだ。さながら驕慢な名馬のごとくに。
 選ばれた持ち主に用いられれば、並みの鋼剣よりも軽く、鋭い切れ味を誇る銀の長剣は、けれど、資格を持たないものの手にあれば、鈍重な金属の棒に過ぎない。重く持ち上げることすら困難な上、刃が曇って満足に物を斬ることもできなくなるのだ。カスパールの手にあって、今は硝子鏡のように澄み切っている。それこそが、カスパールが銀剣を用いる資格を持っているという証拠だった。
 戦場においては馬の首すら断ち切り、刃こぼれひとつすることはない。魔物を相手にすれば威力はさらに絶大だ。並みの武器なら傷をつけることすらできない人狼や龍蛇であっても、この剣ならば斬ることができる。
 けれど、とカスパールは重いため息をついた。
 たとえ自分ひとりがこの銀の長剣を手にしていたところで、ほかの村人たちを守ることができなければ意味が無い。狼狩りに分散してしまった彼らをひとりひとり守ることなどできないだろうし、人狼に遭遇するのがカスパール自身であるという可能性はそれだけ下がってしまう。
 この上も無く美しく、強力な銀の長剣。だが、この場においては切り札とはなりえない。せめて、銀の矢を王都から持ってきていれば、とカスパールは痛烈に思った。
 カスパールは銀剣を鞘に収め、腰に剣帯を巻きつける。そして、念のため、銀で鍍金されたナイフもそこにつるした。
 重い銀剣だが、いつ、人狼と遭遇するか分からない状況においては、身に着けておくにしくことはない。けれど、故郷の村を、こんな重装備をしなければ、歩き回れなくなってしまうなんて。
 剣帯の上から外套を羽織り、カスパールは部屋を出た。階下に下りていくと、兄嫁のヤンネがテーブルを片付けていた。こちらに気づき、振り返る。
「カスパール。どうしたの? どこへ行くの」
「ドロテアの様子を見に行こうと思って」
 カスパールは、壁に掛けてあった外套を取り、剣帯の上から羽織った。羽根つき帽子を被るカスパールに、ヤンネは何かを言いかけ、黙り込んだ。危ないから外に出るな、と言おうとしたのだろう。
 危ないも何も無い。ただ、同じ村の中の家を訪ねるだけだ。なのに、こんなにも物々しい格好をしなければならない。
「お義父さまも、ヘイズの家に行っていたはずよ」
「父さんが? どうして」
「さあ……」
 ヤンネの表情にちらりと不安がにじんだ。
「―――気をつけてね。雨が降っているもの」
「ああ」
 カスパールは表情をゆるめた。
 カスパールよりも1つ年上なだけのこの兄嫁は、昔から、カスパールにとても親切だった。もしかしたら彼女は自分ではなくお前に嫁ぎたかったのかもしれない、と兄に揶揄されたこともある。そういった事柄は横においておくとしても、彼女の心配はありがたい。
「大丈夫。すぐに帰ってくるよ。じゃあ、行ってきます」
 外に出ると、まとわり付くような霧雨が降っていた。
 ここ最近はひどく雨がちだった。この夏はずっとだ。おかげで麦や葡萄の生育も悪く、今年は収穫に困るかもしれない。ただでさえ不安な材料が多いのに、さらに、このあたりの村では人狼などに悩まされている。
 ドロテア・ヘイズの家は、村の中央をやや外れたあたりにある。粉引き小屋が近いのは、ヘイズのおかみさんがパンを焼くことを生業にしているからだった。ヘイズの家の主は何年も昔に森に行ったきり戻ってこない。だから、あの家はドロテアの母親であるヘイズのおかみさんと、その息子たちによって守られている。
 増水した川を渡り、砂利の道を歩いていく。古い林檎の木の立ち並んだ角を曲がると、そこに、大きな煙突を持った屋敷がある。そこがヘイズの家だった。農場の傍らを通るとき、ふと、カスパールは思う。あの少女はどうしているだろうか、と。
 ヘイズの家の馬小屋の、片隅で暮らしている、ちいさな少女。
 ―――カスパールは、少女が生まれる前から、彼女のことを知っている。
 彼女の両親は、村はずれの陋屋で暮らしていた、若い夫婦だった。父親はヘイズの家の息子、今のおかみさんの弟だったが、家と折り合いが悪くなり、家を出て、村はずれで暮らしていたのだ。そして、その原因となったのが若い妻。黒髪に金の瞳をした、異邦人の、若い娘だった。
 彼女は薬草や香草に詳しく、彼らは山羊と蜜蜂を飼い、森で木の実や茸をあつめて暮らしていた。貧しい暮らしだったのだろう。だが、カスパールが知っている限り、彼らはいつでも幸福そうで、身を寄せ合うようにして、つつましく暮らしていた。 
 だが、幸せなちいさな家は、カスパールがまだ9歳のころ…… 少女がたったの3つのころに、廃屋となってしまった。
 父親であり、夫であったヘイズの息子が崖から落ちて死に、妻は謎の失踪を遂げた。理由は分からない。大人たちは皆口をつぐんだ。少女は係累であるヘイズの家に引き取られ、馬小屋の片隅で暮らすこととなった。
 ヘイズのおかみさんは、おそらく、弟が不遇の死を遂げる原因となったのが、その妻であったと思っているのだろう。だから、その妻によく似た少女を疎んでいる。カスパールの眼から見ても、黒い髪に金色かかった目、白い肌をした少女は、その母親によく似ていた。
 ……いつでもぼろぼろの服を着て、やせこけた体つきをしている少女。
 彼女が少しでも温かく暮らせているか、ちゃんと食べさせてもらっているか、ということが、カスパールにはいつでも気にかかる。けれども、13の年には王都へと行ってしまったカスパールには、彼女を守る術は無かった。いまでもそれが悔やまれてならない。
 彼女は無事だろうか、とカスパールは思う。狼に襲われてはいないだろうか。無防備な馬小屋に暮らしている彼女は、それだけ、危険にさらされているはずだ。
 せめて、守らなければならない。自分がこの村に留まっている間くらいは。
 ―――ヘイズの家にさしかかる。ふいに、怒鳴り声が聞こえた。
「どういうことだ、あの娘を追い出しただと!?」
 カスパールは立ち止まる。驚く。それは、父親の声だった。
「ええ、ええ、追い出しましたとも。とんだ疫病神でしたからね! これ以上うちなんかに置いておけるもんか!」
 負けじと怒鳴り返す声が聞こえる。それは、ヘイズのおかみさんの声だ。
「言っておいただろう、あの娘を置いておかないと、大変なことになると!」
「大変なことってなんです? あたしたちはとっくに災難にあってるんだ! なんであたしのドロテアが狼なんかに襲われなきゃならない? あの娘のせいじゃないんですか、あれは!」
 何を話しているのだ? カスパールは、そこから動くことができなくなる。ヘイズのおかみさんは、声を詰まらせ、泣きそうな声でわめきちらす。
「弟と同じですよ! 人狼に襲われたんだ! あの疫病神が人狼を呼び寄せたんですよ。とんだ恩知らずじゃないか! ドロテアはあの恩知らずにあんなに親切にしてやってたのに!」
「だから、人狼がこの村に現れるわけがないと言っているだろう!」
「馬鹿なこと言うんじゃないですよ! あれは人狼のしわざだ。みんな分かってるのに、どうして信じないんです? まだあの女の言ったことを信じているんですか!」
「そのことを口にするな!」
 カスパールの父親が、それこそ、すさまじい声量で怒鳴りつける。父親のそんな怒鳴り声など聞いたことが無い。カスパールはたじろいだ。
 あの女? 人狼? 何がなんだか分からない。カスパールはその場に立ち止まり、耳を澄ました。胸騒ぎがした。二人は何か、自分の知らないことについて話している。それも、とても大事なことについて。
 ―――だが、それきり、二人の声は聞こえなくなった。



 
 

 ドアを開けると濃い薬草の匂いが鼻をついた。鍋で包帯を煮、治療のための薬草を煎じる匂い。
 いそがしく立ち働いている女たちの一人が、カスパールに気づいた。「まあ、どうしたの、カスパール」と声を上げる。彼女の手した盆の中には、血まみれになった包帯がうずたかく積み上げられていた。
 後ろ手にドアを閉めると、すぐに、むっとするような熱気を感じた。かまどには鉄鍋で湯がぐらぐらと沸き立ち、部屋の奥では女たちがひそひそとささやき交わしている。父親の姿は無かった。あたりまえだ。父親がこの家を出るのを見計らって、それから家のドアを叩いたのだから。
「ドロテアに会いにきたんだ」
「そうなの……」
 女は近隣に住む農婦のひとりだった。少し周囲を見回すと、足早に歩み寄り、カスパールの耳元に口を寄せる。
「……急いで来てよかったわね。もしかしたら最後のチャンスかもしれないもの。生きているのが不思議なくらいよ」
 秘密めかした口調でささやき、女は、周囲を軽くうかがった。部屋の奥では女たちがこちらの様子を伺っている。息の詰まりそうな薬草の匂い。カスパールは部屋の奥を見る。
 ドアの向こうにはドロテアの部屋がある。そこに、片腕を失ったドロテアが眠っているはずだ。
「会えないのか?」
「そうね……」
「会わせてあげるよ」
 農婦の声をさえぎるようにして、硬い声が響いた。
 部屋が静まり、全員がざっと振り返る。奥の部屋のドアが開き、また閉じた。現れたのは、ヘイズ家の女主人。ドロテアの母親だった。
 青ざめて土気色の顔は、彼女のほうが腕をもぎとられたかのようだ、とカスパールは思う。女主人はじろりと周囲を見回すと、木靴をこつこつと鳴らしながら、カスパールの傍らまでやってきた。
「会いにきてくれたんだね。待っていたんだよ。あの子が会いたがっていたからね」
「会いたがっていた?」
「うわごとさ。今は眠っているみたいだけどね」
 女主人は深い深いため息をつき、片手で顔を覆った。
 さきほどまで、口さがないことを言っていた農婦も、気の毒そうな顔で女主人を見る。この様子だと、ドロテアの容態はよほど悪いのだろう、とカスパールは思った。胸が痛む。彼女の様子を見たわけではないが、だいたいの話は聞いていた。
 狼に片腕をもぎとられ、木の上につるされていたという彼女。ドロテアには会わなかったが、その片腕は見た。木彫りのブレスレットをつけた手首が、青ざめて、むなしく空を掴んでいた。
 それだけの怪我をした人間が生き延びる確立は、どれほどだろうとカスパールは思う。
 四肢を切り取られても、手当てと状況さえよければ生き残れるはずだった。王都には戦争で体の一部を失った騎士もいる。問題は血だ。人間は、体の中の血が流れ出してしまうと、衰弱して死んでしまう。血は人間の精髄だから。彼女がいたという木の下の、踏み荒らされた血溜りを思い出して、カスパールは顔をしかめた。
「俺を呼んでいた?」
「ああ、そうさ。―――あの子はあんたが好きだったからね」
 かぼそい声で言って、女主人は、かすれた声で笑った。
「馬鹿な子だよ。あんたが帰ってくるってそれだけではしゃいでいたりして。それが、どうしてこんなことになっちまうんだろう」
「……奥の部屋に行ってもいいかい」
「ああ、行ってやっておくれ」
 女主人は疲れ果てた様子で笑うと、近くの椅子にがくりと座り込む。女たちが再び動き始め、凍り付いていた時間が動き出した。かまどでは煮立った鍋がごとごとと音を立てている。
 隣の部屋との間は、分厚い木のドアでさえぎられていた。それをくぐり、ドアを閉めると、隣の音は聞こえなくなる。かわりに、薬草のにおいは、よりいっそう強く立ち込めた。
 ドロテアは、木枠のベッドの上に、包帯だらけになって、眠っていた。
 顔は青ざめて土気色で、落ち窪んだ眼の周りには濃いくまがあった。濃厚な薬草のにおいでも隠せない血の臭い。そして、腐った膿の臭い。
「ドロテア……」
 カスパールは、声を詰まらせ、ベッドの傍らに腰掛ける。ベッドの上に投げ出された手を取った。片方きり残った左手を。ぞっとするほど冷たかった。

 ずいぶん手の込んだエプロンだね
 何年も前から、ずーっと、一生懸命刺繍してきたの

 幼馴染の彼女。彼女が望んでいるほど愛したこともなかったにしろ、嫌いだったことは一度も無い。
 甘やかされて驕慢ではあったが、無邪気でやさしい娘だ。人狼などに襲われて死んでいいような娘ではない。けれど、なぜ彼女が襲われたのだろう? カスパールは、蝋のように真っ白な手を見下ろしながら、必死で頭を動かした。
 考えを整理しなければいけない、とカスパールは思う。人々に、ドロテアを襲ったのは人狼であったと信じさせなければいけない。そうでなければあまりに危険だ。人狼はただの狼とは違う。狩人が倒すことの出来るような、普通の狼とはまったく違うのだ。
 人々は狼狩りをしようと考えている。鉄の矢尻と山刀で狼が狩れると思っている。……ドロテアだけでなく、何人もの村人が人狼に食い殺されてからでは、あまりに遅すぎる。
 この村には人狼は現れない、と父は言った。それがどういう意味だったのかは分からないが、かつて十数年間、この村に人狼――― それだけではなく、普通の狼ですら現れなかったというのは事実だった。人々はほかの村と同じように狼を恐れていたけれども、村境を越えたもののほかに襲われたものは無かった。ほかの村では毎年何人もの村人、何頭もの家畜が狼に襲われているというのに。
 ドロテアが狼に襲われるまでの、すくなくとも十数年。あの少女の父親、ヘイズの女主人の弟のほかには、狼に襲われたものは無い。
 だが、彼は、崖から落ちて死んだということになっていたはずだ。人狼に襲われた、などという話は初めて聞いた。それが事実であったのかどうか。それも、確かめる必要がある。
 なぜ父親は人狼はこの村には現れないと断言したのか。なぜ女主人はあの少女を森へとおいやったのか。そして、なぜ襲われたのはドロテアだったのか。ヘイズの家は決して村はずれにあるのではない。背後にちいさな林を控えているにしろ、その林は『暗い森』とつながったものではない。人狼が現れるのなら、もっと村はずれの家の住人を襲っているはずだ。すくなくとも、近隣の村では、人狼に襲われるのは、村はずれにくらす貧民や、木地職人などの人々だった。
 この村には、もっと人狼に襲われやすいだろう者たちがいるはずだ――― たとえばあの少女のような……
 彼女のことを思い出した瞬間、カスパールの心は、麻のように乱れた。
 少女は、森に追いはらった、と女主人は言った。
 黒い髪。金色かかった瞳。やせこけたちいさな白い顔。ドロテアだけではなく、あの娘まで人狼の犠牲になるかもしれない、と考えると、心臓が握りつぶされるかのような気持ちになる。
 あのやせっぽっちの、ちいさな子どもを森へ行かせた? 殺したも同然だ。できるものなら急いで探しに行きたかった。だが同時に、銀の剣を持ち、唯一人狼と渡り合うことが出来るカスパールが、この村を留守にするわけにはいかないのだ。
 あの子は俺が守ると言ったはずだ。だが、どうすればいい? 
「『夜髪』さん……」
 カスパールは、ドロテアの手を両手で握り締めたまま、うめくようにつぶやいた。
「俺に力を貸してくれ」
 ―――懇々と眠り込んだままのドロテアも、外の女たちも。誰一人としてその声を聞くものは無い。
 
 

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