12


 『夜髪』という名は、彼女の夫が呼んでいるのを聞いて知った。
「お姉さん…… 『夜髪』さん」
 呼びかけると、彼女は、いつものように振り返った。そして、びっくりしたように金色の目を丸くする。カスパールは少しばかりの満足と後ろめたさを覚えた。
「あら、カスパール」
 カスパールは、いつものように、草の茂った細い小道から、這い出してくる。
 村はずれの小さな小屋の周りは、今、秋だった。
 木々が茜色や金色に変わり、蔦の葉も赤く色づいている。森には茸や木の実が豊富に実り、村人たちは夏麦の収穫に忙しい。そういう時期を見計らって家を抜け出してきたのだ。カスパールは、「はい」と言って、手にしていた麻布の包みを彼女に差し出した。
 中身は陶製の瓶。そして、その中は。
「蜂蜜酒ね」
 彼女はちいさく鼻を動かすと、カスパールのことを、笑いながらにらんだ。
「いいのかしら、おうちからこんなものまで取ってきて。怒られるわよ」
「怒られないよ。だってうちにはこんなのいっぱいあるんだ」
 彼女は茣蓙の上で、木の実をより分けていた。後で殻を割って中身を取り出し、粉にするのだ。そして、服から草の実を払い落としているカスパールを優しい目で見た。
 彼女のすぐそばで、彼女によく似た黒髪をした幼女が、あどけないしぐさでトンボを追っていた。だが、不器用に振り回す手などにつかまるような虫ではなく、つい、つい、と羽ばたいては逃げていく。硝子のように光る薄い羽。カスパールは手を伸ばし、後ろから幼女を抱き上げる。
「チビちゃん」
「あーう?」
 幼女の身体はやわらかく温かく、そして、彼女の家で育てている香草の匂いや、森で積んできた果実の甘い匂いがした。やわらかい黒髪から胸いっぱいにそんな匂いを吸い込んで、カスパールはちいさく笑った。
 『夜髪』が笑っていた。木の実をより分ける手を止めて。
 ―――彼女と初めて出会ってから、2年程が過ぎていた。
 細身の彼女の腹が膨れ、赤子が生まれ、その赤子がつたなく歩き出し、言葉を口にし始めるまで。2年。短い時間ではない。カスパールも大きくなった。
 そして、2年目になって、やっとだ。
「その名前、どこで聞いたの?」
 紡ぎ車を回しながら、彼女が聞く。カスパールはすこし後ろめたい気持ちで幼女を地面におろした。
「―――旦那さんから」
 彼女の夫…… 村人の一人である、茶色い髪の青年。
 この家を出ることがなく、村に現れることのほとんどない彼女と違って、夫である青年は、ときおり、村のほうへも現れる。香草や森であつめたもろもろのものを売るために。そんなときに、彼の後ろをしつこく付きまとっていて、とうとう聞き出したのだ。彼女の名前を。
 けれど。
「ねえ、『夜髪』さんて、お姉さんのほんとの名前?」
「なぜ?」
「だって、あまり名前っぽくないもの」
 カスパールは口を尖らせる。彼女は目を笑みに細め、軽く、指を髪に絡めた。
「夜のように黒い髪だから、『夜髪』と呼ばれているの。おかしくはないでしょう?」
「うん……」
「それに、その子は小さいから、『おチビちゃん』だわ」
 納得はいかないのはそっちのほうだった。カスパールは口を尖らせた。
「それはおかしいよ! だって、子どもはみんな小さいじゃないか。そんな名前、まるで、犬か猫みたいだよ」
「はなちてよう」
 たどたどしい口調で言いながら、カスパールの腕の中で、幼女がやわらかい身体をよじった。
 彼女の目ほど鮮やかな色ではない金茶色の目。やわらかい黒髪。その頭を包んでいるのは刺繍を施された被り物だ。手を伸ばす方向にはトンボが飛んでいる。つい、つい、と水の中の魚のように動き、青い空を飛ぶトンボを、幼女は、うらやむような目で見上げていた。
「むしむし、ほしいよう」
「トンボ、ほしいの?」
 幼女は大きな頭をこっくりと頷かせる。カスパールは手を離した。幼女はよちよちと香草畑のほうへと歩いていく。
 母親である『夜髪』は、目を細めてそんな娘を見つめていた。カスパールは彼女の視線の先をおい、そいて、彼女のほうを見る。すねたような口調で言った。
「どうして名前をおしえてくれないの? お姉さんの名前も…… チビちゃんの名前も」
「そうねえ」
 カスパールは彼女の椅子のかたわらに座り込む。草の上にじかに広げられたスカート。乾いた草のいいにおいがした。
「名前はとても大事なものなの。だから、簡単に人には教えられないわ」
「おれの名前はお姉さんに教えたよ?」
「あなたたちの名前は、ほんとうの名前じゃないもの」
 彼女は少し笑った。なぞめいた笑み。
「あなたたちにも本当の名前があるのよ。けれど、あなたたちは一生それを知らないわ。自分自身ですらね」
 カスパールは、大いにむくれた。
 彼女はときおりそういうことを言う。何かなぞめいたことをいって、カスパールを煙に巻いてしまう。子どもだから本当のことを言ってくれないのだろうか? そんなのずるい。子ども扱いをされるのはいやだった。それが『彼女』だからこそ、なおさらだ。
「そんなのずるいよ」
「仕方ないわ」
 彼女は笑い、丁寧に木の実をよりわけていく。
「名前はほんとうに大事な人にしか教えられないの。だから私にはもう一個名前があるのよ。『夜髪』って名前がね」
「じゃあおれ、今度からお姉さんのこと、『夜髪』さんって呼ぶ」
 わずかばかりの反抗心からの言葉だった。けれど、彼女は「いいわよ」とあっさりと答える。カスパールはさらにむくれた。
 そのときだった。ふと、背後から、誰かの歩いてくる気配がする。トンボ相手に手を振り回していた幼女が、ぱっと振り返った。顔をかがやかせる。
「おとうしゃん」
 草の間から現れたのは、線の細い、青年だ。
「あなた、おかえりなさい」
「ただいま、『夜髪』。……あれ、君、遊びに来てたのか」
 茶色い髪に緑色の目。やや華奢な印象の、けれど、日焼けた肌をした青年だった。腕には籠を抱えている。中には、たくさんの茸や木の実が積み上げられていた。
 茸や木の実をあつめるのは女の仕事だ。カスパールはつんと顔をそらす。青年はすこし笑った。おだやかな笑顔だった。
 『夜髪』が立ち上がり、彼の手から籠を受け取るところも、彼が『夜髪』の頬にかるくキスを落とすのも、カスパールは見ないふりの横目で見ていた。なんだかちょっと悔しい。彼はぜんぜん悪い人間ではないということくらい、分かっているつもりだったのだけれども。
 よちよちと歩いていった幼女は、父の足元にしがみつく。父親はその頭をやさしくなでてやる。カスパールのほうにも目を向ける。
「遊びに来てたのか」
「……うん」
 彼は、少し、複雑な表情をした。
 その顔の理由はカスパールにも分かった。―――この家に来ることを、カスパールの家族たちが、よく思っていないからだ。
 遠まわしに禁止されたことがある。まだ、正面を切って言われたことはないけれど。彼もそんなことを遠まわしに言われているんだろう。けれど、迷惑をかけているだろうカスパールにも、彼は何も言うことはない。妻の友人だと知っているからだろうか。娘にとっては大事な兄のような相手だとわかっているからだろうか。
 けれど、彼はすぐに笑顔に戻る。そして、「よく来たね」と笑った。そして、『夜髪』の傍らに置かれていた蜂蜜酒の瓶を取った。
「あれ、これ、君がもってきてくれたのか」
「うん……」
「中身はなんだい? ぶどう酒?」
「ううん、蜂蜜酒」
「へえ、そうかあ。ずいぶん久しぶりだ」
 笑う表情は少年のようだ。カスパールはふと思う。どうして彼女は、ラベルも貼られていない瓶の中身が分かったんだろう。
 彼は瓶を取り、小屋の中へと入っていく。その後姿に、ふと、カスパールは問いかけた。
「ねえ、お兄さん」
「うん?」
「お兄さんは、『夜髪』さんの、ほんとうの名前を知ってるの?」
 彼はふりかえり、すこし、きょとんとした顔をした。―――それから、笑った。
「もちろん、知っているよ」

 カスパールは、大いにぶんむくれた。





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