13






「たのんだぞ」
 カスパールは、両手の中に包み込んだ青鳩に、語りかけた。
「きちんと届けてくれよ」
 鳩は、黒い目をくるくるとまたたいてカスパールを見返す。カスパールは天へと鳩を放った。一瞬バランスを崩したように見えた鳩は、けれど、力強く羽ばたくと、空へと高く飛び立っていく。
 鳩の足には、通信筒をくくりつけてある。彼は王都の教会へと飛んでいくはずだ。カスパールのメッセージを乗せて。
『人狼の被害を見出したり、対策を講ず。帰投遅れる。赦されよ』
 不測の事態ではなかったはずだ、とカスパールは思う。
 彼にあたえられた任務は、本来、この周辺の地域での人狼の被害を調べることだった。この地方の領主にも許可をもらい、ほかにも何人もの若い騎士見習いたちが同じ任務に当たっている。彼らと違いカスパールが単独での任務を行っているのは、彼が人狼と闘うことの出来る力を持っているから。そして、それは、万が一人狼と出合うことになったとき、それを倒すことを期待されているという意味でもあるのだろうから。
 カスパールはちいさくため息をつき、鳩舎のあるバルコニーを降りる。庭では老神父が小さな畑の草をむしっていた。
「済みましたか」
「すいません。貴重な青鳩をお借りしてしまって」
 いえ、と老神父はかすかに笑った。
「あなたがこの村を守ってくれるということのほうがありがたい。小さかったあなたが、今ではずいぶんと立派になったものです」
「いえ、俺はまだ未熟者です。力不足だ…… ほんとうに力があるのなら、あなたがたに不安な思いはさせていない」
 けれど、老神父は孫でも見るような眼で微笑む。適わないな、とカスパールは思った。この村の子供たちの例に洩れず、彼もまた、幼いころにはこの老神父に字と数を習った身であるからだ。
「香草茶を淹れましょう」
 老神父は、膝に手を当てて立ち上がる。カスパールは歩み寄って抜いた草の籠を持った。
 教会は、古びた石造りの尖塔だった。
 このあたりの建物とはすこし異なる意匠は、火打ち石の薄片を積み上げたもので、五階建ての建物の一番上には鐘楼が築かれている。老神父には毎日鐘楼に登ることはつらいのだろう、今では近所の村人の一人が鐘打ちの仕事をしているということだった。教会の裏には墓地が広がり、石の十字架の下には、カスパールの母や妹も眠っている。
 干した薄荷の茶を淹れ、楓蜜を入れながら、老神父は言った。
「ヘイズの家の息子たちは、隣村へと行ったらしいですね」
 薫り高い薄荷茶は素朴な茶器に注がれる。「ええ」とカスパールは答えた。
「隣村には、かつての戦争のときに使われた石弓があるということでしたから……」
「村の女たちの中には、矢尻に鋳なおすために銀の装飾品を差し出すものもいるということですが」
「人狼を撃つには、銀の矢尻が必要ですから」
「ただのお守りだとしても、銀の矢尻を持ち合わせていたなら、ずいぶん心強いことでしょう」
 老神父の言葉に、茶を一口飲んで、カスパールはため息をついた。『ただのお守り』などではない。ただのお守りなどのために、どうして貴重な銀を差し出す? まして、矢の充填に時間のかかる石弓は、普通の狩りには必要の無いものだ。
 石弓、『クロスボウ』とも言う。からくり仕掛けを備えた特別の弓で、弦を引くのにからくりを用いるから、通常ならば引けないほどに強い弓を引くことが出来る。当然、威力はいや増すこととなるが、からくり仕掛けを巻き上げなければ矢を撃てず、当然、すばやい動きとは無縁の武器である。
 戦争に使われることはあっても、狩りに用いられることは少ない、『武器』。
 けれど、老神父は、言葉を翻す様子など、微塵も見せはしなかった。
「このあたりを皆が見回っている。狼の足跡などを見つけたものもいるそうではないですか」
「ええ」
「恐ろしいことです。皆に神の加護がありますように」
 老神父はしかじかのしぐさを取り、胸につるした十字架に触れた。カスパールは青灰色の眼でそれを見つめる。……さりげなく、問いかけた。
「狼がこの村に現れたのは、もう、10年ぶりのことだそうではないですか」
「ええ。……いいや」
 老神父は、答えかけて、けれど、言葉を改めた。
「いいえ、もっとになります。15年かそこら…… 最後に狼に人が襲われたのは、あなたが生まれるよりも前ですよ、カスパール」
 カスパールは、つい、と視線を流すと、教会の墓地を見た。
 大きな菩提樹。立ち並ぶ石の十字架。
「ヘイズ家のヴォルフ」
 その名前を出すと、老神父は、かすかに肩を動かしたようだった。
「ヴォルフ・ヘイズ。エンマ・ヘイズ…… 今のヘイズ家のおかみさんの弟だった。亡くなった時は、まだ、20代のはじめだったはずだ」
 皺深い顔の表情が、石のように硬くなる。カスパールは、さりげない態度で、神父の様子をうかがいながら、言葉を続けた。
「ヴォルフ・ヘイズはヘイズ家を勘当されて、村はずれのちいさな小屋で暮らしていました。それも、彼が村のおきてを破り、異邦人の女を娶ったからです。違いますか?」
「なぜ、あなたが、それを?」
 神父は短く問いかける。カスパールは茶器を持ち上げる。
「ヴォルフ・ヘイズは、俺の友人でした。そして、彼の妻の『夜髪』も」
 ―――カスパールは、この教会を尋ねる前、彼らの家が会った、村はずれを訪れた。
 彼らの暮らしていた小さな家は、跡形もなく破壊され、かすかに土台の跡が残っているだけだった。家を築いていた石くれすら見当たらない。それは、小屋が破壊された後、痕跡すら残さぬように、建材すら持ち去られたという証拠。
 なぜ、そこまでする必要があったのだろう? 彼らは、ただの無力な異分子に過ぎなかったはずなのに。香草を育て、山羊と蜜蜂を飼っていただけの彼らに、何かをするような力など、無かったはずなのに。
「おしえてください。ヴォルフと『夜髪』の墓はどこにあるんですか?」
「……そんなことを聞いて、どうするつもりなのです」
 老神父は、押し殺した声で聞いた。カスパールは静かに答えた。
「俺はただ、彼らの墓に詣でたいだけです」
 ひとくち、薄荷茶を口に含む。涼しい香り。
「彼らは俺の友人でした。友人であるということなど口にするなと言われましたが――― もう10年も過ぎている。十分なはずです」
「なぜ彼らを友人などと呼ぶのです? あなたはあのころ、まだ、小さな子どもだったはずです」
「質問をしているのは俺ですよ、神父様」
 老神父は、しばらく、硬い顔でカスパールを見ていた。やがて、ちいさくため息をつく。
「……彼の墓は、この墓地にはありません」
「なぜ?」
「彼は掟破りでした。掟破りは代々の墓には埋葬できません。彼の骨は、村の北、鎮護の樹の石塔に埋められています」
 村はずれの大きな糸杉。村境に植えられたその糸杉の根元には、旅人などの部外者の骨が埋められる場所がある。あんな場所に墓があったとは―――
「ありがとうございます、神父様。行ってみましょう」
 けれど、そう答えながらも、カスパールは立ち上がらない。なおも老神父をまっすぐ見つめる。
「けれど、あなたは、『彼』と言いましたね?」
「……」
「『夜髪』はどこに行ったんですか? 彼女はヴォルフの妻でしょう。この村の一員だったはずだ」
「異邦人を同胞と呼ぶのは間違っていますよ」
「かもしれません。けれど、行き倒れの旅人でさえ埋葬されることはできます。たとえばあの鎮護の樹の下にとか、ね」
 老神父はふたたび沈黙した。
 カスパールはかすかな苦さを胸に感じ、眉を寄せる。薄荷茶の味にはない、喉に絡むような苦さだ。
 『夜髪』。
 思い出す。まっすぐな黒髪。それを分けた白い額。金色の双眸と、涼やかな笑み。
 いつも香草の香りをさせていた彼女は、カスパールにとって、まるで、姉のような存在だった。
 村の中で彼女の存在が疎まれているということを、感じ取っていなかったわけではない。彼女は教会に詣でることはなかったし、村の女たちの集まる祭りの日であっても姿を現さなかった。けれど、それは、彼女が異邦人だからというだけの理由だと思っていた。
 だが、ただの異邦人であったのなら、たしかに、夫と共に、糸杉の根元に埋葬されるはずなのに。
 何かがそこにあるのだ、とカスパールは今は確信していた。彼女の存在は、何かの鍵であると。
 ヘイズのおかみさんは、彼女のことを『魔女』と呼んだ。ただの、奇妙な技を身につけた異邦人を呼ぶ名なのかもしれない。
 だが、ただそれだけにしては、彼女の存在がこれほどまでにタブー化しているという理由にはならない。
「神父様」
「……あの娘は、神の守りの外にいたのです」
 老神父は、苦々しくつぶやくと、指で魔よけの十字を切った。
「おぞましい異端者に祈りをささげることなどできるものか。たとえ、それが異邦人の墓であったとしても、です」
「たしかに彼女は異教徒でしたね」
 カスパールも聞いたことがある。彼女が異なる神への信仰を語る言葉を。
「けれど、それだけですか?」
 カスパールは、青灰色の瞳に力を込めて、ひた、と老神父を見据えた。
「あなたはさきほど、俺の言葉に一度頷きましたね? ヴォルフ・ヘイズは、狼に襲われたのではないのですか? そして、『夜髪』も……」
「誰からそんなデマを」
「なぜデマだと?」
「……ヴォルフ・ヘイズは崖から落ちて死んだのです」
 老神父は目をそらした。
「あれはひどい事故だった。雨で地盤がゆるんでいて、崖の道が弱くなっていたのです。そして、歩いていた二人は崖から転落した――― ヴォルフ・ヘイズの遺骸は見つかりましたが、あの女は髪一筋見つからなかった。おそらく、獣に持ちされれてしまったのでしょう」
「本当に?」
「なぜ、嘘をつく必要があるのです」
 だが、言いながらも、老神父はカスパールの眼を見ない。カスパールは語気に力を込める。
「では、なぜ、幼い娘だけが、生き残ったのですか?」
「……」
「『夜髪』はたしかに異邦人でした。ですが、それだけ森のことにも自然のことにも精通していた――― 彼女が地盤がゆるんで危ない道を歩くとは思えない。まして、そんな夜に、幼い娘を一人きりで家においておく理由が分からない」
「……あなたの言っていることはすべてただの推測です、カスパール」
 老神父は、硬い声で言った。
「では、あなたはあの女がどこへ行ったと思うのですか? 夫と子どもを置いて?」
「それは……」
「だいたい、あれはもう10年も以前のことです。いまさらそれを穿り返してどうするつもりなのですか」
 老神父は、音を立てて椅子から立った。背を向ける。痩せた背に、硬い拒絶の色があった。
 その背を見ながら、カスパールは、ひそかにため息をついた。
「そうですね。おかしなことを聞いてしまい、すいませんでした」
「……」
 老神父は何も言わない。あたりまえか、とカスパールは思う。最初から彼に聞いただけですべてが分かるなどとは思っていなかった。仕方あるまい。
 ―――ひといきに薄荷茶を飲み干し、立ち上がった。
「ヴォルフ・ヘイズの墓所を教えてくれてありがとうございました、神父様。今から詣でに行きます」
「……気をつけるのですよ」
 老神父の背中が、小さな声で言った。
「もう、どこに狼がいるか、分からないのですから」





 『鎮護の樹』である糸杉は、村を出て、道へとつながる細い村境に植えられている。
 まっすぐに伸びた糸杉は、石灰石の露頭する丘に立っていた。黒いほどの緑の葉。土が薄いので根がうきあがり、むき出しの地面を掴む様が人目で見て取れた。
 村境には、かならず、糸杉が植えられる。
 糸杉は『使者を守る樹』だ。『使者』は『死者』でもある。糸杉は越境者を見つめ、悪いものが外と中の境を乗り越えることを防ぐといわれている。それとて、今の世では、ただの気休めのまじないに過ぎないだろうが。
 カスパールは、鎮護の糸杉の根元に、石が積み上げられた小さな石塔があるのを見つけ、その前にひざまずいた。ちいさな瓶に入れた酒を石塔に注ぎ、白い花を束ねた花束を置いた。
 糸杉の上空には青い空が広がる。ゆっくりと這っていく雲の白さ。春の終わりのうららかな光。
「ヴォルフ」
 カスパールは、しずかに、石塔へと語りかけた。
「分からないことだらけだ。……あなたは、誰に殺されたんだ?」
 カスパールは、今では半ば確信していた。ヴォルフが死に、『夜髪』が消えた夜、何かが起こったのだと。
 誰に聞いても、口を閉ざす。なぜヴォルフが死んだのか。『夜髪』が消えたのか、ということについて。
 彼らの住処は石くれひとつ残さず破壊され、『夜髪』の行方は誰も知らない。けれど、けして狼が現れないといわれたこの村で、ヴォルフが狼に殺されたのだと噂されているのは本当らしい。それは本当にただの狼だったのだろうかとカスパールはいぶかしんでいた。ヴォルフが死んだ場所がその疑いの理由だ。
 ヴォルフが転落したという崖は、村のはずれのほうにある。
 切り立った崖の下は沢で、道は岩山を切り開いて作られている。あまり幅は広くない。むき出しの石灰岩は白い。雨が降ると道が滑って大変だろう。そんな場所に、野生の狼は、めったに姿を現さない。
 まして、村をはさんで森の正反対の方向にあり、森からそちらに抜けるには、村の真ん中を通らなければならない道だ。ただの野生の狼が現れるとは思いにくい。もしかしたら、ほんとうに、ただの事故だったのかもしれないという可能性もあるが――― だとしたら、村人たちのあの疑いは何だろう?
 ひざまずいて頭を垂れ、考え込むカスパールの背に、斜めになった太陽の光が差す。丘に茂った草々は風になびき、青々とした葉が波のようになびいた。かすかな鈴の音は、糸杉に結わえ付けられた魔よけの鈴の鳴り響く音だ。
 それに、遠く、別の鈴の音が、交わった。
 カスパールは顔を上げる。木々のない、丘を連ねた道の向こうから、一台の馬車が近づいてくる。
 幌のない馬車の御者台に、ふたりの男が腰掛けていた。鳴っているのは馬具につけられた真鍮の鈴だった。見覚えがあった。ヘイズ家の持つ馬車だった。
 ごろごろと轍が鳴り、馬車は近づいてくる。カスパールの傍らで止まる。御者が「どうどう」と馬の首を叩いた。
「なんだ、カスパールじゃないか。こんな場所で何をしているんだ?」
「ブルーノ。フランツ」
 ヘイズ家の息子たち――― 片割れ、下の息子のブルーノが、石塔に備えられた花束を、不思議そうに見た。
「何をやってるんだ?」
「まあ、いろいろさ」
 カスパールは微妙に言葉を濁した。
 だが、その様子にも気づかぬほど、二人は上機嫌の様子だった。「見ろよ!」と荷台を示してみせる。
「狼だぜ。俺たちがしとめたんだ」
 馬車の荷台には――― さほど大きくはない、まだ若い狼の、だらりと弛緩した屍骸があった。
 灰色の毛皮が血に濡れ、その身体には何本かの矢がつきささっている。一本は腿に刺さっていた。おそらく、一撃目を足にうけて、逃げ切れなかったのだろう、とカスパールは気づく。半分開いた口元から、赤い舌がだらりと吐き出されていた。
「どうしたんだ、狼なんて」
「隣村から戻ってくる途中で見かけたのさ。やつら、森を出て草原のあたりをうろついてやがった。だから、こいつでしとめてやったのさ」
 ブルーノが持ち上げて示すのは、大きな石弓だった。からくり仕掛けと太い弦。
「これさえあれば、狼なんて一撃だ! 幸先がいいだろう? これからこいつの毛皮をはいで、マントでも作ってやるつもりさ。狼狩りに着ていくんだ!」
「……」
「何だ、景気の悪い顔をしやがって。―――お前、まだ狼が怖いのか?」
 ブルーノは嘲笑った。傍らでフランツがくつくつと笑う。
「……そんな訳じゃない」
「そうだよな。まさか騎士様がたかが森狼を恐れるもんか。明日の狩りにはお前も来るよな?」
 ブルーノは念を押すようにカスパールの目を覗き込む。その茶色の瞳には、血なまぐさい喜びが、ぎらぎらと輝いていた。
「狼ども、10匹も狩って毛皮にしてやれば、恐れて村には近づかなくなるはずさ。ドロテアをあんな目に合わせたやつも、きっと見つけ出して、毛皮を剥いでやる」
「……」
「まさか、まだ、人狼だなんて言うんじゃないだろうな」
 ブルーノは、あざけるように言った。カスパールは思わず言い返した。
「なぜ、人狼じゃないといえるんだ?」
「知るか。誰も人狼だなんて言わないんだから、そうなんだろ…… それに」
 ブルーノは、カスパールへと、石弓を向けた。
「銀の矢尻に、この石弓さえあれば、人狼だろうがなんだろうが、関係ないね」
 ブルーノは唇の片端をつりあげる。なぜだか、その笑みは、ひどく神経質なものに見えた。
「ドロテアの敵を討ってやる」
 カスパールは軽く眉を寄せる。不安が胸の奥に重石のようにわだかまった。なおも何かを言おうとするブルーノを、フランツが制止する。カスパールに言った。
「十分な石弓を借りてこれたし、矢も、山刀や剣もある。これで狼狩りが出来るぞ、カスパール」
「ああ……」
「明日、村の若者たちで、森で狼狩りをする手はずになっている。……不安か?」
「相変わらずの臆病っぷりだな」
 フランツは問い、ブルーノは嘲笑う。カスパールは何も答えない。
「明日の朝、村長の…… お前の家だ。今日は早く寝ておけよ、カスパール」
 言うと、フランツは馬に鞭をくれる。馬はふたたび歩き出す。馬具の鈴がにぎやかに鳴った。
「逃げ出すんじゃないぞ!」
 去って行く馬車の御者台で、ブルーノが怒鳴っていった。そのまま馬車は坂を下っていった。
 カスパールは、糸杉の根元に立ち尽くし、その馬車を見送った。馬車はゆっくりと曲がり道をめぐり、そして、なびく草の向こうへと消えていった。


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