14




 ―――その夜、彼女の魂は、梟のようにひそやかに夜を飛んだ。

 暗い雲。その間からきらめく透き通った星々。森は影の獣のようにうずくまり、川が銀のリボンのごとく輝いている。そして月。黄金水晶の鏡のごとく曇りない月。彼女の魂は、その夜の澄み切ったうつくしさを、甘露のように堪能した。
 そして、魂はやがて地面へ近づいて、一叢の家々に気づく。それは屋根を板で葺いたいくつもの家々の集まり。その中にひとつ、尖塔が見て取れる。尖塔といってもささやかなものだ、と彼女の魂はひっそりとつぶやいた。森の古木にかなうものではなく、まるで、枯れた木のようにひっそりと立ち尽くしている。
 教会。尖塔。その窓に、琥珀色や茜色、水緑色の丸い硝子がはめ込まれている。内側からの明かりでほのかに照り映える丸い窓。彼女の魂はその窓のひとつをするりと潜り抜けた。水鳥が水面をくぐるように。そして、真鍮の蝋燭立ての上へと舞い降り、留まる。獣脂蝋燭が燃えて、くすぶるようなにおいが、教会の中に満ちていた。
「……ほんとうに狩を決行するというのか?」
 彼女の魂は、その眼を…… 非存在の眼をまたたいた。こんな深夜だというのに、教会の中に、何人もの男たちが集まっている。
 どれも壮年の、村では責任ある年齢の男たちばかりだ。皆、フードを深くかぶり、白の混じった髪や髭でしかそれぞれを見分けることができない。けれど、男たちは祭壇の前に集まり、それぞれ、ひどく陰鬱、かつ深刻な様子で、ひそやかにささやき交わしている。
「案ずることはない。まだ、『骨』がある」
「だが、『血』はすでに失われてしまったのだろう? ……なぜヘイズの家にあの娘を任せたのだ。あの家には男がいなかったのだぞ? 謎を知らぬものが、どうして謎を守れる」
「この家にはあの娘に連なるものは、今ではヘイズの家しか無かった。仕方の無いことだ。ほかにどうすればよかった。そういうのなら、お前の家であの血を守れたとでもいうのか。誰か、自分の家であの娘を引き取れたという者が、ここにいるのか?」
 ひとりの男の言葉に、ほかのすべてのものたちが、口をつぐんだ。
 彼女の魂は注意深くそれを見下ろす――― 男たちの足元には、大きな丸いレリーフが刻まれている。
 そこに刻み込まれているのは、『神の子』…… かつてこの世界に降り立った、偉大なる神の御子の像だ。
 かつて『神の子』は、邪悪な森と、混沌なる海を治め、封印し、この大地を人間たちの豊穣の地、乳と蜜の流れる地としたという。今も人々は一心に『御子』を、その父なる天上の神と、その母なる地上の聖母を信仰する。それが唯一の真理であり、異端はすべからず滅ぼされなければならない。
 けれど、と彼女の魂は思った。
 だが、今、教会へと集まった男たちの姿は、まるで異端そのままだ。邪悪な森の女王、混沌なる海の王を信仰する、さもなければ契約によって彼らの力を得んとする邪悪なる使徒どものようではないか。さもなくば、なぜこうして人目を避けて教会へと集まるのだろう?
「若者たち、女たちは、この村にはけして森のものは現れないと信じている」
「あたりまえだろう。それが我らの望んだことだ。現に、いままで、家畜ひとつとして狼に取られることは無かった。墓に鴉が止まることすらないほどだったのだからな。たしかにあの娘は嘘をついてはいなかった」
「森のものは嘘をつかぬというのは真実だったらしいな」
「だが、だから若造どもは、狼狩りなどという無謀なことを言い出したのだ」
 ひとりが自嘲的につぶやく。とたん、男たちは、ざわざわとそれぞれ勝手につぶやきだす。
「ならば、なぜ止めなかった?」
「仕方ないだろう。どうやって止めろというのだ」
「秘密を明かせというのか? ……村ごと異端として焼かれるのがおちだ。まして、今は王国騎士が村にいるのだぞ?」
「騎士だかなんだか知らんが、迷惑なことだ。貴様の息子が銀の剣などを持ってきたから、若造どもが人狼と戦えるなどと思うのだ」
 男たちの一人が、手に携えた杖で、床のレリーフをたたいた。鋭く大きな音。
「静まれ!!」
 とたん、男たちは、静まった。
「―――いまさら言っても仕方の無いことだ」
 その男は、血を吐くような声で、つぶやいた。
「われわれにはまだ『骨』がある。覚えているだろう? あの娘が契約したことを」
 男たちの声が唱和した。

『我が血と骨の有る限り、森の眷属は汝らを傷つける力を持つまじ』

「……だが、ドロテア・ヘイズの件がある」
 男たちの一人が、自嘲的につぶやいた。その瞬間、彼女の魂は慄いた。不可解な恐怖に。
「すでに誓いは破られた。いまさらすがってなんになる。……王国騎士団に申し出て、人狼討伐の部隊を送ってもらうべきでは?」
「そして、われわれは村を追われるといううことか。そしてこの村は滅びるのだな。ドロウの村のように森に呑まれて」
 別の男が、刺すように鋭く答える。
「異端と認められ、皆で火あぶりになれというのか」
 ほかの男が、それに答えた。
「そうだ。いまさら戻れはしない。10年前、いや、15年前にすでにわかっていたことだ」
 杖を手にした男が、低く、つぶやいた。
「先決なのは、『血』を取り戻すことだ」
 かつん、と再び杖で地面をたたいた。御子の姿が浮き彫りにされたレリーフを。
 彼女の魂は気づく。男の手にした杖には、白く、何かがはめ込まれている。―――それは、一そろいの狼の牙。白い牙だ。
 男は杖を取り、狼の牙をはずした。小さな白いかけらを男たちが取る。ひとり一つづつ。牙は男たち皆に行き渡った。杖の男が重々しく宣言した。
「『血』を取り戻す。ひとまずはそれが先決だ。さもなくば、森へ行くことなど許可したものか」
 男たちは黙って聞いている。かつん、と杖の男がふたたび床をたたいた。
「狼どもなど知ったことか。我々は村を守ればいいのだ。……『血』を取り戻せ。あの娘は絶対に生きている。そう遠くへは行っていないはずだ。取り戻し、今度こそ村から離れられぬように厳重に閉じ込めるのだ。そうすれば、村はふたたび守られるだろう」
 男たちはひそやかに同意し、そして、蝋燭が吹き消される。ひとつ、またひとつと獣脂蝋燭が消え、教会は闇に閉ざされた。
 彼女の魂は、再び夜へと舞い上がった。

 ―――おかしなこと。
 ―――にんげんがもりへゆくなんて。
 ―――にんげんが、もりのなかで、もりのものたちにかなうわけがないのに?
 ―――ころされてしまうわ。



 私のように。



「―――いやぁぁぁぁっ!!!」
 そして、すさまじい悲鳴と共に、彼女は、ドロテアは、目覚めた。
「ドロテア!?」
 悲鳴と共に、起き上がる。その様子に、居眠りをしかけていた看病の女がたたき起こされる。驚愕の目でドロテアを見た。枯れ枝のようになった片手で、硬く毛布を握り締め、裂けんばかりに目を見開いているドロテアを。
「め、目が覚めたのかい!? 誰か、誰か!!」
 女が叫ぶと、にわかに家内が騒がしくなる。家にまだ留まっていた女たちが次々と目覚め、家の中に燭がともされる。すぐに家族たちが駆けつけてくる。母、兄たち。時ならぬ深夜の喧騒の中で、けれど、ドロテアひとりが、血走った目で宙を見据えて、カタカタと小刻みに震えていた。乾いた唇が慄いた。
「……だめ。だめよ。森へ行ってはだめ」
「ドロテア? ドロテア!? 目が覚めたのかい?」
「殺されるわ! みんな人狼に殺されるのよ!!」
 すさまじい絶叫となって、声は人々の鼓膜をつんざいた。ドロテアは狂気のように悲鳴を上げた。声はまるで高笑いのようでもあった。
「殺されるんだわ、人狼に! 人狼の報いよ! ……あはは、あはははは!!!」
 ちぎれた腕の傷口が開き、にわかに包帯に血がにじんだ。血と膿の臭い。狂気じみた表情に誰もが怯んだ。母親ですら近づけないベッドの上で、ドロテアは、笑いとも叫びともつかない声を上げ続けた。目からは、削げた頬へと、とめどなく涙が流れ落ちた。血のように。

 ……それは、夜。






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