17




 少女の日々は、総じて、穏やかに過ぎた。
 朝、早い時間に冷水をかけられ、叩き起こされることもなく、食べるものが無くて豚の餌を横取りすることもない。寝床ではいつも鹿の毛皮と毛布に包まり、祖母は新鮮な森の食材の料理や、温かい麦や蕎麦の粥を出してくれた。質素だが清潔な衣服と、近くの泉での水浴び。
 炉の灰を掻いたり、薪を集めてきたり、といった手伝いはあったが、怒鳴られることなく、ほめられて仕事をするのは、少女にとってまるで体験の無いことだった。大きくて力強い手に頭をなでられると、くすぐったい気持ちになる。胸が温かくなる。
 そして、今日も。
「『裂け耳』、どこー?」
 少女が呼びかけると、ちかくの藪がガサリと動く。顔を出した狼は、裂けた耳を軽く動かした。
 彼が近くにいることに安心して、少女はまた、手元の作業に戻る。今日任されたのは霧麻を摘む仕事だった。野生の霧麻を集め、紡いで布の材料にするのだ。
 木々は節くれだって天へ伸び、ごつごつとした幹はまるで溶岩が固まったようだと思う。頭上には青々とした葉が密に重なり合い、細い木漏れ日が金色の糸になる。
 霧麻の茎は強いから、少女は片手に小型の山刀を握っていた。ところどころで群落になった霧麻の白い花を見つけ、切り取って茎を集める。背の背負籠にあつめていく。
 『裂け耳』は、そしらぬ顔をし、そっぽを向いているようで、いつも少女の所作に気を配っていた。ときおり森の獣らしい気配を感じることもあるけれども、『裂け耳』がのそりと立ち上がり、時にそちらをにらみつけると、すぐに気配は退散してしまう。体の大きな『裂け耳』は、このあたりでも恐れられている立場らしい。少女にとっては実に頼りになる相手ではあった。
 頭上を小鳥たちの影が行きかい、遠く、さえずり交わす声が聞こえる。澄んだ笛の音のように高く鳴くのはあれは鹿だ、と祖母に教えられた。ピピピピィ、と高く鳴く声に、少女は手を止め耳を澄ます。
「ねえ、『裂け耳』。森って、ぜんぜん怖くないのね」
 霧麻を集める手を止めずに、少女は『裂け耳』に話しかける。『裂け耳』は、聞いていますよ、とでも言うように尾を振る。
 霧麻の汁で指先が青くなる。青臭く涼しい匂いが鼻をくすぐった。小さな手を働かせながらも、少女は、独り言のように続ける。
「森に行ったら死んでしまうってみんな言ってたけど…… おばあちゃんも『裂け耳』も、森で暮らしているんだものね」
 少女は、ふと、手を止めた。
「でも、じゃあ、なんでみんな森で暮らさないのかなぁ?」
 振り返ると、金の眼の『裂け耳』は、やはり、聞いていますよ、という様子で尾を振る。だが、返事をしてくれる気配はない。当たり前だよね、と少女は微笑んだ。
「ふしぎね。……おばあちゃんに聞いたら、おしえてくれるかなあ」
 眼を上げると、すぐ近くに大きな霧麻の藪があった。少女は立ち上がり、そちらへと藪を分けていく。『裂け耳』ものっそりと立ち上がる。……ふと、踏み出したつま先が、こつんと何かにぶつかった。
「?」
 木の根か、と思う。だが、違った。積み上げられた石。そして、それの崩れたもの。
 眼を上げると、近くの草の中に、石積みが埋もれている。少女はそっと足を退いた。そして、眼を上げて、周囲を見回した。
 気づけば、そこかしこに石積みが埋もれている。崩れかけた石積みや、砕けた瓦。ぱきりと足元で音が鳴り、少女足元を見下ろす。釉薬の残った皿のかけらが草の間に光っている。
 眼を瞬いた。あきらかに、人の暮らしていた痕跡。
 ―――朽ち果てた村。
 だが、村は木々に覆われ、草に埋もれて、今では痕跡しか残されていない。たしかに木々は若いように見えた。百年を経た森の木々よりは幹が細い。けれど、葉は同じくらい盛んに広がり、村の跡を覆ってしまっている。
 霧麻を刈るのも忘れ、少女は、おそるおそる足を踏み出した。わずかな名残を残した石畳を踏む。今では草に持ち上げられ、根に盛り上げられて、でこぼこになった石の列だけを残した道。
 歩きにくい道を歩いていくと、やがて、左右にかつての町並みが現れてくる。まだ壁の残った家。傾いた柱。途中、半分欠けた顔の天使像が落ちていることに気づき、少女はしげしげと地面を見下ろした。ここはどうやら教会だったらしい。すこしあたりを見回すと、錆朽ちた十字架が、草の中に倒れていた。
 少女は手を伸ばす。白い釉薬をかけた、小さな十字を拾い上げた。ロザリオだろうか。数珠はなくなっていて見つからない。カラスが拾っていってしまったのかもしれなかった。
 滅び去った家々。崩れた教会。荒れ放題の田畑。古い林檎の木。
 こんなところに村があったなんて、と少女は思う。
 あきらかに、もう、何十年も前に森に埋もれてしまった村だった。教会の石に文字が刻まれていたけれど、文字の読めない少女には、なんと書かれているのかも分からない。こんな村のことなど聞いたことも無かった。
 静けさの支配した、荒廃した村に立っていると、不意に、寒気のようなものを感じる。
「『裂け耳』」
 なぜだろう。太陽はこんなにあたたかく、金色の陽をとろとろと降り注がせているというのに。
 少女はかがみこみ、『裂け耳』の首をぎゅっと抱き、温かい毛皮に、顔を押し付けた。くぅん、と『裂け耳』が鼻を鳴らす――― なだめるように、少女の顔を舐めた。


「それは、50年前まで人間たちの住んでいた村だよ」
「なんで、誰もいなくなってしまったの?」
「森に飲まれてしまったのさ」
 丁寧に刺繍をする老婆の手元を見ながら、少女はぼんやりと目を瞬く。近くは霧麻の青臭いにおいでいっぱいだった――― 積んできた霧麻はちかくの沼に浸された。あとで表面の繊維をはがし、それを紡いで糸にするのだ。
 石の小屋の傍ら、陽の光のあたる小さな広場で、老婆は刺繍を縫い、少女は足元に座り込む。『裂け耳』も近くの茂みに腹ばいになっていた。薫り高い香草の植え込み。森の蜂の物憂い羽音。
 斜めになった金色の日差しが差す。老婆が縫い物をする手つきは、村の女たちとは違っているようだ。縫い取る柄も違っている。何かの花柄だろうとかろうじて分かる不思議な模様。素朴な色合いの色糸を指でより分け、唾液をつけてしごきながら、老婆は手を動かし続ける。
「もり?」
「昔は人間たちがくらしていたんだけれどね、だんだん、森が近づいてきたんだよ。だから人間は村を捨てたのさ」
 丸木にすわった老婆の足元に座ったまま、少女は目をまたたいた。森が近づく? 何の話だろう。
「むかし、むかしの話だよ」
 老婆は、うたうような口調で言った。
「森の女王様と、海の王様と、人の子が、さいころ遊びをしたんだよ。牙のさいころと、真珠のさいころと、銀のさいころ……」
 少女はにも聞いたことのあるような話だった。教会で神父様が、囲炉裏端で母親が幼子に話してくれる、古い、古い伝説。
 あるとき、森を支配していた森の王と、海を支配する海の女王、そして、ひとりの人の子がさいころを転がして勝負をしたのだ。そして彼らは、この世界をその勝負に賭けていた。
「その勝負に勝った人の子は、ほかのお二方にこう願った。1000年の時を人間にくれとね。1000年間、この陸と海を人間のものにしてくれって」
 それが千年前さ、と老婆は言い、糸切り歯で糸を切った。少女は目を丸くした。
「そんなお話、聞いたことない」
 教会で話されるとき、神父様はこう言うだけだ。人の子は、ほかの魔物たちから、この世界を人へと取り返してくださいました……
「ほんとうさ。人間たちは、忘れたいと思っているようだけれどね」
 老婆はやさしく笑い、刺繍を施していた布を、ぱん、ぱん、とはたいた。斜めになってきた陽の光で柄をたしかめ、満足げに笑う。
「だから、この陸地は森のものに、海は海のものたちの手に帰ることになっている。だからね、次第に森が広がっていくのが定めなのさ。人間たちは森に飲まれ、波に追われて消えていく定めなんだよ。……さ、できた。こっちへおいで」
 老婆は出来上がったものを少女の頭にかぶせた。首の下で紐を結ぶ。少女は目を瞬いた。それはきれいな赤に染められた、被り物だった。
「おばあちゃん、これ、なあに?」
「きれいな頭巾だろう? 茜で染めたんだよ。この模様はね、森の王様のご加護をいただけるのさ」
 老婆は皺だらけの手で少女の頭をなでた。似合うねえ、と眼を細める。
「きれいな赤い頭巾だからね、これから、お前のことは『赤ずきん』と呼ぶよ。いつまでも名無しじゃあ困るもんねえ」
「赤ずきん……」
 少女は眼を上げ、それから、うつむいた。
「……わたし、そう呼ばれてた」
 汚い、垢だらけの頭巾の、『あかずきん』。
 老婆は痛ましそうに目を伏せる。手を伸ばすと、少女を抱き寄せる。ふいに抱きしめられて、少女は目をまたたいた。金茶色の眼を。
「知っているよ」
 いとおしむように、なだめるように、何度も、何度も、頭をなでた。抱きしめられた強さ。老婆の胸元からは、濡れた土と露の匂いがした。少女は目をふせる。今まで感じたことのないぬくもり。
「でもね、お前は今日からは、すてきな赤い頭巾の『赤ずきん』だよ。いい名前だろう?」
「うん……」
 けれど、少女は、赤ずきんは、うつむき加減に眼を瞬く。そして、長いまつげを上げた。
「でも、おばあちゃん、どうしてわたしの名前を呼んでくれないの?」
 あどけなく問いかける赤ずきんに、老婆は、頭をなでていた手を止めた。
「あのね、わたしの名前はね……」
 赤ずきんは、言いかける。けれど、その口元を、枯れ枝のような指の一本で止められた。
「簡単に言っちゃあいけない」
 赤ずきんは眼を瞬く。老婆を見上げる。老婆は金色の目を細めた。
「お前の名前はとても大切なものだよ、赤ずきん。だから、言ってはいけない。大事にしなければいけないよ」
「……」
「わかったね?」
 念を押され、赤ずきんは、よく分からないままに頷いた。老婆は笑い、少女の顔をやさしくなでる。そのときだった。
 遠く、狼の吼え声が聞こえた。
 足元でうずくまっていた『裂け耳』が、敏感に顔を上げる。牙をむいて、短く唸った。赤ずきんは眼を瞬いた。
「どうしたの、『裂け耳』?」
 何も言わずに立ち上がった『裂け耳』は、歯茎を剥き出して唸る。無言で老婆が赤ずきんを放した。立ち上がった。
「おばあちゃん?」
「いい子で待っておいでね、赤ずきん」
 金色の目を細めて笑いかけると、老婆は、『裂け耳』の頭を軽く叩いた。
「おばあちゃん、ちょっと出かけてくるからね。絶対に小屋の近くを離れてはいけないよ」
 不安に眼をまたたく赤ずきんを、老婆は、最後にもう一度だけ抱きしめた。
「赤ずきん、きっとおばあちゃんが守ってあげる。もう二度と、お前をひどい眼になんて合わせやしないよ」
「うん……」
 くうん、と『裂け耳』も鼻を鳴らした。赤ずきんの差し出した手を舐めた。
 うおおおん、と遠くでまた狼の声が聞こえた。
 そして、老婆と『裂け耳』は、目を合わせ、それから歩き出す。赤ずきんは小さな小屋のまえに立ち尽くした。そして、木々の向こうへと消えていく二人の姿を見送った。

 




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