18



「ヤア!」
「ヤア、ヤア!!」
 男たちの声が森に響き渡り、森は、ときならぬ喧騒に見舞われた。
 ブーツを履いた足が、腐った枝を踏みしだき、木々の間を駆ける。枝からいっせいに鳥たちが飛び立ち、さわがしく鳴き騒いだ。その下を男たちが行く。犬が走り、矢が放たれ、山刀が振るわれた。
 ブルーノは愛犬を駆りながら、木々の下を走った。目の前に見える灰色の背中を追い詰める。
 それは一匹の、若いメスの狼だ。
 死に物狂いで逃げていく、その足元に血が点々と散っていく。背中で矢がゆれている。ブルーノは背の矢筒から矢を一本引き抜いた。弓を引き絞る。音を立てて矢が放たれる。
「ギャン!」
 目の前で、狼が、悲鳴を上げて跳びあがった。のた打ち回って暴れまわる。あたりの草が激しく揺れ、ブルーノは唇を笑みの形に吊り上げる。
 やった!
 近づいていくと、背中と喉とを貫かれた狼がもがき苦しんでいた。吐き出した血泡が草を濡らす。ブルーノは狼に噛まれないように腹を踏みつけると、腰の後ろから山刀を抜いた。
「ブルーノ」
「兄貴!」
 狼にとどめを刺したとき、背後から草を分けて現れたのは、兄のフランツだった。
「見ろよ、やったぜ」
 ブルーノは笑い、尻尾を持って狼の身体を吊り上げる。血まみれになった体はだらりとして重い。「そうだな」とフランツは答えた。
「皆はどこに行っているんだろうな?」
 遠くから、ときおり、誰かの叫び声、狩り笛の音などが聞こえてくる。フランツもまた襟元から狩り笛を取り出す。兎の骨で作った笛。強く吹くと、予想外に大きな音が響く。
 この森の傍らに暮らす男で、この狩り笛の意味を解さないものはいない。長く二回、短く二回。吹いてから耳を澄ますと、返事が帰ってくる。短く一回、長く一回、再び短く一回。
「みんな、どうやら、ドロウの村跡のほうに集まっているらしいな」
「狼どもを追い込んでいるのか?」
 ドロウの村跡。50年も昔に滅び去ったかつての集落の跡だ。ほとんどの家は森に飲まれてしまっているだろうが、おそらく、中央広場や教会程度は残っているだろう。そこが狼どもの巣になっているだろうという話だった。おそらく、追い込まれた狼たちは、ドロウの村跡のほうへと集まっているはずだ。
「この時期だったら、孕み狼や、仔狼どもがいるはずだ。巣にあつまっているはずだから、おそらく、ドロウを守るために大人の狼どもも集まっているだろう」
「なるほどな。一網打尽に出来るって訳か」
 ブルーノは笑った。そして、山刀で狼の尻尾を切る。尾を切り取られたぐったりとした身体は、湿った地面に落下した。
「しかし、狼ども、口ほどにもないな」
 ブルーノは笑いながら、切り取った尾を背嚢に納める。
「襲い掛かってくることも無い、逃げるばっかりだ。豚を殺すのと同じくらい簡単じゃないか。ほんとうにこいつらが羊を襲ったりするっていうのか?」
「……」
 フランツは何かを言いかけ、また、黙った。「なんだよ」とブルーノは問いかける。
「いや……」
 この血気にはやった弟に言うのも無駄だ、と思ってフランツは言わなかった。だが思っていた。―――狼たちの様子がおかしくないか。何故、こんなふうに反撃もせずに逃げていくのだ? と。
 遠く、狩り笛の音が聞こえた。長く一回。間をおいて、短く一回。
「行くぞ、ブルーノ」
 フランツは軽く頭を振って埒も無い考えを振り払った。そして歩き出す。「ああ」と答えて弟も続いた。


 ドロウの村に近づくと、やがて、足元に道の名残らしきものが見え始める。隆起した石畳の跡。石畳の街道はひどく珍しいものだ。彼らの村で、石に葺かれた床など、教会の前でくらいしか見ることが出来ない。
「どういう村だったんだ、ここ」
 ブルーノはつぶやく。足元に手をやる。そして、少し笑った。
「魔物が出るっていうのは本当かね」
「おとぎ話だろう」
 フランツは短く答える。―――ドロウの村が滅びたのは、もう、50年も前のことだ。
 50年前のことを覚えているものは、今では彼らの村にも少ない。ある日唐突にドロウの村からの客人が途絶え、人が恐れて近づかなくなったドロウの村はまもなく木に埋もれた。今では近づくものも無い廃村だ。狼くらいしかすむものはない。
 村長たちなら、かろうじて当時のことを記憶しているか。だが、真相はやはり闇の中だ。魔物が今でもドロウの村に暮らしていると信じるものも村にはいたが、男たちのなかにはそんなことを信じるものは誰もいない。女子供のたわごとだ、と皆思う。
 村に近づいていくと、男たちの声が聞こえてきた。崩れ去った建物の名残、積みあがった瓦礫や瓦の欠片。緑の藻が浮いた沼を気持ち悪そうに避けながら、二人は男たちの集まったところへと近づいていく。
 そこにあつまっていたのは、一群れの男たちだった。
 中にはカスパールもいた。膝を突いて穴の中を覗き込んでいる。青い目の横顔。ブルーノは目をそらし、唾を吐いた。フランツが壮年のひとりに話しかけた。
「おい、どうした」
「巣を見つけたんだ」
 男たちは昼間だというのにたいまつをともし、皆で穴を囲んでいた。それはおそらくはかつての地下室の名残か何かだろう。瓦礫がつみあがった隙間に穴がある。そこの前に狼の足跡が無数に散らばっていた。
「中には?」
「たぶん牝と仔狼がいるはずだ。さっき、犬をもぐりこませたんだが……」
 帰ってこないんだ、ギブのやつ、と一人の男がくやしそうにつぶやいた。
「狼ども、死に物狂いだ。さっきから入り口を塞いでいるが出てやしない。このままじゃどうしようもない」
「入り口を塞いじまえばどうだ?」
 ブルーノは言った。
「飢え死にさせてやればいい」
「いや、出入り口がほかにあるかもしれない」
「そうだったらもう逃げ出してるだろう」
「穴を掘って逃げ出すかもしれないぞ」
 年長の男が、きっぱりと言った。
「煙責めにするんだ」
 男は手を伸ばし、近くに生えている草をむしりとる。剣の形をした黒い葉。それは毒草だ、と皆が気づいた。
「このあたりにはこの木がたくさん生えていた。山刀で刈り集めてきて、煙を穴の中に吹き込んでやればいい。仮にやつらが出てくるとしても、毒で弱っているはずだ。そこを一網打尽にしてやれ」
「よし」
「わかった」
「それまで入り口を石で塞いでおこう」
「この岩がいいんじゃないのか?」
 男たちは声を掛け合い、あるものは岩を転がし出し、あるものは近くの枝を刈りだす。ブルーノも勇んで声をかけた。
「俺も枝を集めてくる」
 言うなり、山刀を抜く。そして他の男たちについて歩いていこうとした。 ―――ふと、それをフランツが呼び止める。
「おい、ブルーノ」
 フランツは弟を呼び止めて、自分の首に手をやった。革紐を解く。そして弟の手に握らせる、それは、白い狼の牙だった。ブルーノはフランツを見た。
「兄貴?」
「お守りだ」
 フランツはにっと笑った。
「狼には気をつけろ」
「言うまでもないさ」
 ブルーノは少し笑う。そして、山刀を片手に走り出した。


 毒の木の赤い花を追いながら歩いていくと、男たちは森の中へと入り込んでいく。
 森は次第に暗くなり、足元には深く草が茂った。見つけた枝を刈り落とし、縄でくくって集めていく。そうして作業をしていると、ふと、遠くから、狼の遠吠えが聞こえた。男たちは不安げに顔を上げた。だが、ブルーノは顔を上げなかった。頭の中で少し笑いすらした。他の男たちの様子を。
 簡単なもんじゃないか。
 狼狩りなんて。
 いままで一人として狼の攻撃を受けたものはいない。やつらはみんな逃げていくだけだ。怖がるまでも無い。
 
オオオオ…… オン。

 いっせいに、鳥が飛び立った。
「……なんだ?」
 男の一人が顔を上げる。不安げにつぶやいた。
 どこか遠くから狼の遠吠えが聞こえた。それに答えるように、次々と遠吠えが続く。ブルーノも目をあげた。
 
オオ……ン。

 木々が、ざわめいた。
 身を捩るようにざわめく木々の陰に、暗い影がちらついた。
 ふいに森が暗くなったようだった。太陽が翳ったのか。
「なんだ?」
 男たちの一人が不安げにつぶやく。その瞬間だった。
「ぎゃああっ!!」
 ふいに、つんざくような悲鳴が、響いた。
 男たちは振り返る。何が起こったのか。枝の折れる音が続いた。そして男たちは気づいた。男の数が一人足りない。
「おい、アルノー? アルノー!!」
 ふいに、我に返ったように、誰かが叫ぶ。消えたのは若い男の一人だった。一人が慌てて後を追って藪の中へと走りこんでいく…… だが、唐突に足音が途切れた。
「おい、どうした!?」
 ばきばきという枝の砕ける音。何かが引きずられていく音。奇妙な物音に、男たちは声をなくした。男は帰ってこない。森の中に行ったきりだ。
 そのとき、だった。
 木々の間に、金色の火が灯った。
 それは火。それは燃える猫目石。それは金色の星。
 火が瞬いた。それは火ではなかった。黄金の光る獣の目だった。男たちは息を飲んだ。
 あれは。
 ―――あれは?
 ブルーノは、そのとき初めて、自分の背に負った、石弓のことを思い出した。
 慌てて石弓を下ろし、矢をつがえる。からくり仕掛けを巻き上げる。ギリギリという機械の悲鳴が、異様なまでに静まり返った森に響いた。男たちの息遣いまでもが耳につく。
 木々に覆われて向こうは見えない。だが、そこを、何かが飛ぶように走っていく。
 黄金の目は、しばらく、男たちを見つめていた。そして、ゆっくりと、近づいてくる。腐った枝の砕ける音が響いた。
「お――― おい」
 男たちのひとりが、あえぐように呟いた。
「アルノーは? ハンネスはどうしたんだ?」
 ブルーノはギリギリと奥歯をかみ合わせた。石弓を真っ直ぐにその影へと向ける。だが、発射できない。先端がぶるぶると震え、狙いが定まらない。
「にげ…… た、ほうが……」
 ひとりの男がつぶやく。全員の意識がそちらへ集中した。その瞬間だった。
 ふわり、と影が飛び上がった。
 音もなく。
「―――ァァァアアア!!」
 男の一人がすさまじい悲鳴を上げる。びちゃっ、と飛び散った血がブルーノの顔に飛沫した。男の悲鳴は途切れた。一息に頭を飲み込まれて。男の頭を一口に食いちぎり、影は無造作に首を横に振った。音を立てて、影の口の中で頭蓋が砕けた。
 男たちの目の前に姿を現した――― それは、巨大な影だった。
 狼は、男の頭を飲み込むと、舌でゆっくりと口の回りを嘗め回した。火のような舌。瞳は燃える猫目石。体躯の大きさは牛ほどもあるだろう――― 異様なまでに大きい。太い足が地面を踏みしめ、長い尾は地を掃かんばかりだった。黒い毛皮は光を吸い込んで闇のよう。そう、それは影だった。生き物ではない。立ち上がった影としか形容のしようがないものだった。
 影が形を取った、狼だった。
「うわああああ!!!」
 ブルーノは悲鳴を共に石弓を放つ。鋭い音と共に矢が発射される。だが、その矢はたしかに狼の胸に命中したのに、何の感触もなくそのまま胸へと吸い込まれた。
 なぜだ!? ブルーノは悲鳴を飲み込んだ。取り落としそうになる石弓を必死で握り締める。別の男もまた、我に返り、次々に矢を放った。だがその矢はすべて狼の身体に吸い込まれ、傷をあたえた様子は無い。狼がゆっくりと歩き出すと、立っていたはずのその場所に、狼の身体をすり抜けた矢が刺さっていた。
 狼は男たちをゆっくりとねめつけた。口が開いた。火のように赤い口が、たしかに笑ったようだった。

『ニゲロ』

 男たちは、そのとき、狼の声を聞いた。

『ニゲルガイイ、ニンゲンドモ』

 狼が、すさまじい声で、咆哮した。
 男たちが、悲鳴を上げた。いっせいに、縄を切られた馬のように走り出す。
 そして、ブルーノもまた、突き飛ばされるように走り出した。
 木々の枝が手や顔を引っかく。足が木の根やぬかるみに取られる。だが、そんなことすらも意識には上らない。ブルーノは必死で逃げた。その頭の中で混乱した嗜好が渦巻いた。なぜ石弓が効かない? あれはなんなんだ? あれは人狼か――― あの化け物が!?
 まもなく、男たちの姿は、影の狼の視界から消え去った。
 影の狼は、ゆっくりと周りを見回し、炎の黄金の目をまたたいた。足元に転がる頭を失った死体を興味もなく見下ろす。そして、長い尾をひとつ振り、ゆっくりと立ち上がった。
 そして狼は、ゆっくりと歩き出した。
 ―――ドロウの村跡へと。







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