19





 その生き物は、とてもひそやかに森を歩んだ。
 周囲を狼たちが走っていく。灰色の毛皮の下に筋肉を躍動させ、下草を揺らしながら、風のようにかけていく。吐き出した舌が赤い。一頭の片耳が裂けた狼に率いられた狼たちの群れ。
 もしも狼に詳しい狩人ならば、見て理解するかもしれない。金色の瞳をもつ彼はただの狼ではない。身体は大きく、尾が長く、瞳には知性の光と怒りの色が宿っている。彼は半魔。ただの狼ではなく、わずかばかりの魔力と、人間なみの知力を持ち合わせた狼だ。
 走り抜けた先で、唐突に草が切れる。そこは丘。くぼ地に残った幾群かの廃墟を見下ろした、小高い丘だった。
 節くれだち、ねじまがった樫の枝の上に飛び上がり、彼は振り返る。彼の数倍はあるだろう巨大な暗い影が、音も立てずにひたひたと駆けてくる。その眼は黄金の炎だ。彼はふたたび村を見下ろす――― そして、長く、高く、空へ向かって咆哮した。

「……なんだ!?」
 岩穴の入り口に木の枝を組んでいた男たち、松明に火をともしていた男たちが、皆、いっせいに振り返った。
 いつの間にだろう。空は曇り始めている。鈍重な灰色の空の下、長く尾を引いた狼の遠吠えが響く。それに呼応してさらにどこかで狼が吼えた。声は次々と増えていく。男たちはうろたえ、あるいは血相を変えて、持っていたものを放り出してそれぞれの武器を手に取った。
「狼ども、まだ残ってやがったのか」
 男の一人が残念そうに吐き捨てる。他の一人がおろおろと言う。
「おい、なんだかずいぶん数が多くないか? それに、かなり近いような……」
 オオオン、と再び声が響いた。その声に、カスパールは、はっとしたように顔を上げた。松明を近くの岩の隙間に突きたて、弓を取る。銀の矢尻をもった矢をそれに番えた。
 さきほどまでの憂鬱そうな表情など消し飛び、今の彼の眼にあるのは厳しい警戒の色だ。その変貌に驚いたのか、男たちの一人が、「おいおい」と彼を笑った。声は震えていた。
「大丈夫さ。こっちは大人数なんだし、狼どもだって……」
「―――来る!」
 さえぎるように鋭く叫ぶと同時。廃墟を囲んだ潅木が揺れ、灰色の風が飛び出した。
「うわぁっ!」
 それは一頭の狼。一散に走ってくる。そして、地面を蹴って跳躍すると、人の輪からわずかに離れていた男の一人に飛び掛った。
「オルト!」
 カスパールは叫んだ。同時にギリギリと歯をかみ合わせる。びゅん、と弓弦が鳴った。狼が悲鳴を上げて飛びのいた。
 肩に矢を受けた狼は、そのまま数メートルも飛びのくと、低く身体を構えて、唸りながら男たちをにらみつける。その眼。金の眼。カスパールはふたたび矢を抜いた。男たちもまたおっとり刀でそれぞれの武器や弓を取る。誰かが叫んだ。
「狼ども、こんなに隠れてやがったのか!」
 潅木が揺れ、次々と狼が現れる。どれも体の大きな雄ばかりだ。なかでもひときわ体の大きな灰色狼…… 片耳が裂けた狼…… が、低く唸りながら藪から出てくる。その眼は男たちをにらみまわし、むき出しになった白い牙のあいだから唸り声が漏れた。
 囲まれている。
 カスパールは唐突にそう悟る。
「ちくしょう、どうなってるんだ」
 傍らで、フランツが悔しそうに吐き捨てた。カスパールは低く呟く。
「……巣が危ないとわかって、もどってきたんだ」
「どうして分かったんだ? それに、こんなにたくさん、どこから集まってきたんだ!」
「……」
 カスパールは何も言わなかった。だが、嫌な予感がざらつく舌で背筋を舐めた。手がそろそろと弓からはなれ、腰に下げた剣へと近づく。
 そのとき、だった。
 ざわり、と風が吹いた。
「なんだ?」
 男たちの一人が、うろたえたようにつぶやく。狼たちが唸りながら身を引いた。道を開けたのだ。
 そして、潅木が揺れて、何かが現れる。それは――― 巨大な影。
 その影がいったいなんなのかを見分けるよりも早く、雷霆のような、すさまじい咆哮が響き渡った。

 オオオオオオオオ!

 男たちが誰もがひるんだ。その瞬間だった。影は、重さを持たないかのように、風に吹かれた布のように、ふわり、と宙へと跳びあがった。
「散れ!」
 その瞬間、カスパールは絶叫する。それが攻撃の口切だった。
 狼たちの輪がどっと崩れた。狼たちが、男たちへと殺到した。
「うわああ!!」
 影の咆哮にうろたえていた男たちの反応は一瞬遅れた。その一瞬が間違いなく命取りだった。飛び掛った狼は、次々と男たちを地面へと引き倒す。腕に噛み付かれた一人が絶叫した。肩を押されて地面へと押し倒されるもの。腹の肉へと食いつかれるもの。
 銀剣を傍らにしていたカスパールだけが、その瞬間、敵の行動に的確に反応した。
 ギィン、と銀の剣が鳴った。受け止めた狼の牙。一瞬、その眼とカスパールの眼との視線が交差する。だが、カスパールは力任せに狼を振り払うと、ブーツの足でその腹を全力で蹴り飛ばした。ぎゃん、と悲鳴を上げて狼が地面に転がる。カスパールは慌てて周囲を見回した。
「イェンス! ヴァルター!!」
 一人の男が狼に押し倒されて、肩の肉を食いちぎられて悲鳴を上げている。カスパールはとっさに剣を振り上げた。銀剣はたがいなく狼のうなじを貫く。狼は絶叫した。男の悲鳴とそれが混ざり合う。
「くそっ、どうなってるんだ!!」
 別の一頭を一人の男の腕から引き剥がす。だが、引き剥がされた狼は、すぐに地面で反転して、再びこちらへと向かってきた。遅れて何人かが山刀を抜いた。だが、遅すぎる。こんな近距離で狼となんて戦えるものか!
 飛び掛る狼の牙を銀剣で受け止め、振り払い、薙いだその剣が狼の前足を斬り飛ばす。血潮が散る。ふたたび悲鳴が聞こえる。見ると、男たちの何人かが、ばらばらと村跡から逃げ出していく。
「離れるな! 危ない!!」
 森の中にはまだ狼がいるかもしれないのだ。近寄ろうとする二頭を、抜き身の剣と弓とでけん制しながらカスパールは叫ぶ。だが、聞いた様子は無い。男たちは一散に逃げていく。何頭かの狼がそれを追跡し、森の中へと駆け込んでいく。まずい、とカスパールの脳裏に思考がひらめく。森の中は狼たちのフィールドだ。ここで戦うよりもさらに不利なのに!
「危ない!」
 そちらに意識を取られた瞬間、ふいに、カスパールは、横から突き飛ばされた。
 その瞬間、カスパールの頭のあった場所を、漆黒の風が薙いだ。
 そのまま地面を転がって、カスパールはすばやく立ち上がった。膝をついたままで銀剣を構える。そこに立っていたのは巨大な狼だった。狼というべきなのか? それとも、ただの影というべきなのか。あまりに巨大で、あまりに漆黒の、生き物とすら呼びがたい『もの』。それが、カスパールの前に立ちふさがり、爛々と燃える黄金の眼で、こちらを見下ろしている。
 影の狼は、口に弓をくわえていた。誰かから奪い取ったものか。狼はあっさりとその弓を噛み砕いた。弓は二つに折れて地面に落ちた。
「フランツ!」
 カスパールをかばったのは、フランツだった。すかさずカスパールの前にかばうように立つ。その手には山刀が握られている。だが、その声は震えていた。
「なんなんだ、これは?」
「フランツ」
「なんだ、この、化け物は!!」
 影の狼はおおきく口を開いた。まるで笑ったようだった。そして、動いた。
「うわああああ!!」
 フランツは闇雲に山刀を振り回す。だが、その刃は、たしかに触れたはずなのに、狼の身体を何の抵抗もなしにすり抜けた。狼の牙が光った。脇腹を咥えられ、体が人形のように振り回される。肉が千切れた。フランツの身体は人形のように吹っ飛び、近くの廃墟の壁に叩きつけられる。そのショックで石組みが崩れた。すさまじい音。
「フランツっ!!」
 飛沫した血潮が、カスパールの頬にまで飛び散った。カスパールはとっさに立ち上がった。ほとんど本能の動きだった。銀剣を腰ために構えたまま、全力で狼へと疾走する。
「おおおっ!!」
 だが、剣はむなしく宙を切った。狼はふたたび影のように跳んだ。数メートルも跳びずさると、音も立てずに地面に着地する。
 カスパールは数歩たたらを踏み、だが、すぐに体勢を立て直す。両手で握り締めた剣を構えた。息が恐怖のあまり荒くなっていた。肩が上下するのを感じながら、カスパールは背後へと呼びかける。必死でフランツの名を呼ぶ。
「おい、フランツ、フランツ!!」
「ぐ……」
 叩きつけられた石壁に、熟れたトマトを叩きつけたように、真っ赤な血が飛び散っていた。フランツは、信じられない、という顔でそれを見た。その顔が歪む。食いちぎられた腹からは大量の血が吹き出す。はらわたが血の中からはみ出していた。痛みのあまり絶叫する。狼が口を開いた。笑ったような表情だった。

『カエレ』

 そのとき、カスパールの頭の中に、奇妙な声が響いた。
 声ではない声。人間のものではない声。だが、その声はたしかに警告の響きを持っていた。カスパールはハッとした。燃える猫目石のような眼が、カスパールをまっすぐににらみつけている。

『カエレ、ニンゲンドモ』

 カスパールは呻いた。
「貴様が人狼か」
 生まれてはじめて見る人狼。だが、その姿はたしかに文献で見たままだ。牛のような体躯。光を吸い込む漆黒の毛皮。そして、黄金の瞳。影の狼は地を掃くほどに長い尾を揺らしながら、喉のそこで低く唸った。地鳴りのような声。

『ココハキサマラノバショデハナイ』

 そうだ。ここは狼たちの巣だ。人間の立ち入る場所ではない。
 そう思いかけたのは一瞬、カスパールはすぐに思考を頭から追い払い、唇を噛んで剣を正眼に構えなおした。油断無く人狼の姿をにらみつける。
「貴様が、ドロテアを襲ったのか!?」
 人狼は答えなかった。カスパールがひるむ様子を見せないのに対して、相手を敵と認識したらしい。身を低く屈め、喉の奥で唸り始める。瞳は火の粉のように光った。
 背後にはフランツ。退けない。カスパールは唇を噛んだ。体がひるんでしまいそうだった。必死で相手をにらみつける。その一挙一動すらも見逃さぬように。
 狼の動きは速く、唐突だった。
「―――ッ!!」
 飛び掛ってきた前足に、鋭い爪。ギィン、と銀が鳴った。受け流すのが精一杯だった。次の瞬間開いた口が眼前を掠めた。唾液が糸を引いた牙が、顔のわずか数センチ先を横切っていった。
 飛びのく。横に回りこむ。銀剣を薙ぐ。だが、それは黒い毛皮をわずかに切り飛ばしだけだ。狼はふたたび跳躍し、カスパールの背後へと跳んだ。とっさに反応しようとした踵が石を踏みつけた。カスパールはよろめいた。隙が出来た。
 殺される! 瞬間、冷たい予感が臓腑を貫いた。だが。
「ギャン!」
 狼が、悲鳴を上げて、飛びのいた。
 カスパールは慌てて横に転がり、そのままの勢いで立ち上がる。見た。狼の肩に一本の矢が突き刺さっている。白い矢羽。銀の矢尻を持った矢。
 とっさに振り返ると、血まみれのフランツの腕に、弓が握られていた。「やれ!」 フランツは絶叫する。カスパールは剣を握りなおした。地面を踏んで跳んだ。振り上げた銀剣が、一閃した。
「―――!!」
 ばっ、と真紅の血が飛び散った。
 狼の片目から血が飛び散る。漆黒の影の獣でも血潮はたしかに赤かった。狼は口を開いて絶叫した。いける! カスパールは銀剣を握りなおす。そして再び走り出す。顔の傷をかばって隙を見せた狼へと。だが。
「兄貴―――!?」
 ふいに、背後からの悲鳴が、その足をさえぎった。
 それはブルーノだった。背後の森の間から現れる。そして、惨劇の場となったドロウの村跡を見て、呆然と立ち尽くす。隙だらけの姿。その背中に向かって、一匹の狼が全力で走っていく。カスパールの体が、とっさにそちらへと動いた。
「危ない!」
 叫ぶと同時にブルーノを突き飛ばす。灰色狼はブルーノのいた場所で空を咬んだ。カスパールは銀剣を逆手に持つ。そして、灰色狼が振り返るよりも早く、その背を斬りつけた。灰色の毛皮が裂けて、血が飛び散った。
「なんだよ…… なんなんだよ、これっ!!」
 ブルーノは絶叫する。そして、壁にもたれかかった兄、フランツの下へと駆け寄った。
「兄貴、兄貴ッ!」
 腹を食いちぎられたフランツは、先ほどの一射で、すでに気力を使い果たしていた。ぐったりと倒れた首が、ゆすられるたびにぐらぐらと揺れた。はらわたが血溜りにはみ出している。必死で兄を呼びながら、肩をゆさぶるブルーノ。その姿はあまりに無防備だ。他の狼の攻撃を剣でいなしながら、まずい、とカスパールの脳裏に言葉がひらめく。
 影の狼は、そんな兄弟を、じっと見つめていた。
 切り裂かれた片方の目からは、ぼたぼたと血が流れ落ちている。ブルーノは涙を流しながら影の狼をにらみつけた。腰から山刀を抜く。やめろ、とカスパールは絶叫しそうになった。
 人狼に鉄の武器はいっさい通用しない。立ち向かったとて無駄死にだ。だが、カスパールに、二頭の狼が執拗に向かってくる。いなすことだけで精一杯。向こうへ向かうことなど出来ない。

 このままでは、兄弟もろとも死ぬだけだ!

 ―――だが、狼は、動かなかった。
 黙って、身をひくくかがめたまま、ブルーノを見ている。爛々と燃える黄金の眼で。ブルーノは必死で狼をにらみ返していた。
 足はがくがくと震えている。このままでは、一口に首を食いちぎられるのがいい落ちだ。だが狼は動かない。まるで何かを恐れているかのように……?
 そのとき、だった。

「おばあちゃん……?」

 この場にまったく似つかわしくない、少女の声が、村跡に響いた。
 カスパールは顔を上げた。見た。そこに、少女が立っているのを。
 それは、やせっぽっちの、黒い髪に、赤いずきんを被った少女。
 少女はぼうぜんと目を見開いていた。金色の目が、銀剣を持ったカスパールを、必死で狼にたちむかうブルーノを、そして、瀕死のフランツを見ていた。そして巨大な影の狼をも。
「―――……!!」
 カスパールはとっさに叫んでいた。少女のことを呼んで。
 危ない。逃げろ。殺される。その黒い狼に、食い殺されてしまう!!
 だが、次の瞬間起こったことは、カスパールが思ったこととは、正反対のことだった。
 黒い狼が、ゆっくりと、向きを変えたのだ。
 狼は少女を見た。少女は狼を見ていた。狼はかすかに唸った。金の瞳がちらりと人間たちを見た。だが、それが最後だった。
 狼は、おおきな顎を開くと、少女の服をそっと咥えた。少女は空中に吊り上げられる。親猫が子猫を咥えるように。その瞬間少女は我に返ったようだった。悲鳴のように叫んだ。
「か、カスパールさん!? おばあちゃん!? どうして……っ!?」
 にわかに暴れ出す。だが、そんな少女の抵抗すら意に介さぬように、狼はゆっくりと立ち上がる。そして最後に人間たちを一瞥した。その黄金の眼で。
 そのとき、狼の咆哮が、村跡に響いた。
 カスパールは振り返った。そして見た。崩れ去った教会の廃墟の上に、一頭の狼が吼えている。裂けた片耳の灰色狼。
 それはもしや号令だったのか。それに答えて、次々と咆哮が返った。黒い狼は踵を返した。その口元で、少女は暴れ、悲鳴のような声を上げ続けていた。
「や、やだ、おばあちゃん! カスパールさん! カスパールさん!!」
 だが、狼は少女を咥えたまま、ふたたび、影のようにふわりと飛び上がる。そして大きな瓦礫の山をあっさりと乗り越え、跳び去っていった。ほかの狼もそれに続いた。
「カスパールさん……っ!!」
 最後に、少女の声だけが遠く響いた。それが終わりだった。
 まもなく、狼たちは去り、沈黙が後に残された。
 終わったらしい。そう悟った瞬間、カスパールの膝から力が抜けた。
 がらん、と音を立てて銀剣が地面に転がる。カスパールは呆然と狼の去っていった方向を見つめた。
 なんだったのだ、今のことは? ほんとうに人狼はいた。だが、初めて姿を見た人狼は、予想を超えた存在だった。それは影。三次元に立ちあがり、歩む影に他ならない。
 その影が、なんと言った? なんと呼びかけた。そして、なぜあの少女が狼と共にいるのだ。
 そして。
「兄貴……! 兄貴っ! しっかりしろっ!!」
 振り返ると、ブルーノが、ひっしでフランツに呼びかけ、肩を揺さぶっていた。
 だが、フランツの足元からは、じわじわと血溜りが広がっていく。その首はくらくらと人形のように揺れた。死んでいた。ブルーノの声は次第に絶叫へ、慟哭へと変わっていく。
 見回す村跡には、何人もの男たちが傷つき地面に転がって呻いている。狼たちとの戦いの結果がこれだ。
 だが、どういうことだ?
 なぜ、あの影の狼は、ブルーノに攻撃しようとしなかった?
「うわああああ!!」
 兄の死を悟ったブルーノが、はらわたを引きちぎられるような声で絶叫する。声は、がらんどうの廃墟へと響き渡る。


 それが――― 狼退治の顛末だった。





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