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「おお、カスパール…… よくぞ帰った」
「父さん」
 よろめきながら立ち上がり、抱擁を求める父親を、カスパールは両手で抱きとめた。
 村で一番大きな屋敷は、ほかの家とも同じ、灰色の石を積み上げて作られている。太い垂木とマントルピース。壁には花盛りの春を織り成したタペストリーが飾られ、樫の机の上には蜂蜜の入った菓子が準備されていた。
 兄嫁が薫り高い香草茶を入れてくれる。カスパールは椅子の上に父を座らせ直すと、卓の向かいに腰を掛けた。
「よく無事で『暗い森』を超えられたな」
「迂回路を使って、クレイヴとローンフィールドを通ってきたんだ。ひどく時間がかかったよ」
「そうか…… だが、息災なようで良かったよ。安心した」
 父は気弱なことを言う父に、穏やかな笑顔を返しながら、内心で、父がひどく年老いたということを思わずにいられない。カスパールは、父が初老に差し掛かってから生まれた末子だった。
 若い後妻から生まれた子だから、上の兄二人とは半分しか血がつながっていない。母はカスパールの妹にあたる子を死産して死んでしまった。だから、カスパールは年老いた父に甘やかされるようにして育った子だった。その分、かつては老いても堅牢であった父の変貌に、胸が痛むものを感じずには入られない。
「して、どうして今回の帰郷と相成ったのだ?」
「本当は帰郷が目的じゃないんだ。……アースメイとの国交が断たれてから、騎士団のほうもずいぶんと慎重になっていてね」
 俺は、このあたりの情勢を見てくるように言われたんだ、とカスパールは言う。
 兄嫁は、不安げな顔をして、カスパールのカップに茶を注いだ。
「アースメイって、たしか、西のほうにあった国のお名前でしょう」
「はい、義姉さん。百合のアースメイ、白い壁の王国…… あまり大きくは無いが美しい国だった」
 カスパールは礼をいって一口茶を含んだ。干した薄荷のさわやかな匂い。
「そのアースメイが、今年の冬、突然国交を断ったんだ」
「何があったのだ?」
「……分からない。難民たちに話を聞き、何人もの特使が向かったけれどが、結局のところ、ほんとうの原因は分からずじまいだったんだ。ただ、わかったのは、今ではアースメイは『森』に飲まれてしまったということだ」 
 アースメイは、この国にとっては、山脈を隔てて隣国に当たる。途中に横たわった『竜の背骨』山脈のせいで、さほど国交があったわけではないが、それでも、隣国であったことには間違いが無い。山脈を越えてやってくる行商人たちのもたらす香草や細工物はこの国にとっても重要なものだったし、遠くさかのぼればアースメイの王族はこの国の王族にとっても係累に当たる。そのアースメイが滅んでしまったとなれば、この国にとっても他人事ではない。
「ただひとつ分かっていることは、アースメイでは昨年、王子が新しく妃を迎え、王へと即位したということだ。その王妃が、もしかしたら、このアースメイの滅亡になんらかのかかわりを持っていたのかもしれない」
「王妃が魔女だったということか?」
「断言はできないが……」
 村長は、うめき声をあげて、黙り込んだ。
 火の入っていないマントルピースの上には、大きな角鹿の頭や、狼の頭が飾られている。それらはすべて、若い日にこの村長が狩ってきたもの。村長はかつて優秀な狩人であったのだ。だからこそ彼は『森』を知っていた。かつての『森』がどのようであったのかを、知っていたのだ。
 カスパールは、黙ったままに思う。この大陸は、次第に、人の手に負えるものではなくなりつつあると。
 かつて他の大陸との航路となっていた海域に、奇妙な魔物が登場するようになり、船の往来がまったく出来なくなってしまった。話によると魔物はうつくしい少女の姿をして、歌声で人を惑わすという。あるいは冬になるたびに北方の集落が消えていく。噂によると北の果てに魔女が住み着き、人の命をいたずらに奪うようになったという。
 ―――かつて、カスパールは、この大陸の古い地図を見たことがあった。
 その地図では、大陸には、けして多くの森があったわけではない。かつてこの大陸に移り住んできたものたちは多くの森を伐採した。そして、平地となった大地に葡萄畑や牧場、麦畑を作り、人の数を増やした。人は繁栄し、多くの国を作り出した。
 そして、繁栄のその次に、疫病と戦乱が訪れた。
 多くの人々が死に、国は荒れ、大地はヒースしか生えない荒地と化した。
 ……いつからだろう。そんな大地に、ひっそりと、『名づけえぬものたち』があらわれたのは。
 彼らは闇に乗じて表れては、赤子をさらい、乙女を隠した。荒地にはやがて木々が芽生え始めた。人々が気づかぬうちに木々は育ち、やがて、森となった。それ以前にもたしかに森はあった。人々の手を拒んだ、樹齢数百年を誇る古木たちが。だが、その古木たちを王として、森が版図を広げ始めたとき、病と戦乱、お互いの疑心暗鬼に疲れ果てた人々には、抗するすべが無かったのだ。
 それが、今から何百年か以前の話。
 今でも森は広がり続け、人々は、今では広がり行く『暗い森』のまわりにへばりつくようにしてひっそりと暮らしている。魔物たちの跳梁はなおさら止めるすべが無く、ときに人の手に栄華を取り戻そうとするものがあっても、かならずその身には災厄が降りかかった。たとえば、森を切り開き、あらたな領土を手に入れようとしたアースメイの王国がたどった末路のように。
「……父さん、クレイヴとローンフィールドで、噂を聞いたんだ」
 かちゃん、と音を立てて茶器をおき、カスパールは静かに切り出した。
「最近、このあたりで人狼が出るんだって?」
 びくん、と村長の肩が震えた。
「誰から聞いた」
「クレイヴやローンフィールドでは皆が知っているよ。夜な夜な狼が現れては人を襲う…… 中には家の中にいたはずの人間すら襲われる。しかも、羊や豚は無事だというのだから、あれは普通の狼ではありえないとね」
「……」
「この村ではどうなんだい?」
 兄嫁が不安げな眼で二人を見ていた。しばし黙ってカスパールは父を見つめた。
 やがて、村長は、ゆっくりと言った。
「……この村には、人狼は現れない」
「なぜ?」
「どうしても、だ」
 断言する父の声は、しかし、かすかに震えていた。カスパールは青灰色の眼をわずかに細める。
 なおもカスパールが何かを言いかける、だが、それをさえぎるように、村長は立ち上がった。
「この話はやめにしよう。せっかくお前が帰ってきたんだ。今日は祝いにしようじゃないか」
「父さん!」
「話はいつでも聞ける。しばらく村にとどまるんだろう? 豚を屠らせよう。ベックマンの家に行って豚を買ってきなさい。あと、極上のワインを開けるんだ。ああ、お前の幼馴染のドロテアも呼ばせよう。ちょうど良いじゃないか。あの子はずいぶんときれいになった」
 ドロテアになら、ついさっき、会ったばかりだ、とカスパールは思う。村長が手を叩き、兄嫁がドアを開けて人を呼ぶと、小間使いが現れる。
 いったい、父は、何を考えているのだろう?
 カスパールは苦い思いをかみ締め、薫り高い茶を、ひとくちすすった。


 



 少女が樫の林から戻ってくると、にわかに家が騒がしくなっていた。カスパールが帰ってきたらしい。村長の家のカスパールが。
「ああ、今じゃあただのカスパール坊やじゃないよ。なんといっても王国の騎士様だ! 思いっきり歓待しないとねえ」
 少女には笑顔一つ見せたことの無い叔母が、うれしそうな顔をしてスカートをからげ、地下の倉庫から茸の漬物を取り出してきたり、豚にあわせる付け合せのハーブを集めてきたり。帰ってきた少女を目ざとく見つけると、「あかずきん!」とすぐに呼びつける。
「今すぐ森へ行って木苺を摘んでおいで。付け合せのプディングを作るんだよ。日が暮れる前に籠いっぱいに集めてくるんだ。すぐ行くんだよ、ぐず!」
 籠を手渡されると、休むまもなくすぐに家をたたき出される。
 農場を出て、外へと出ると、遠く、豚の悲鳴が聞こえてきた。ついさっきどんぐりを食べさせるために林へつれていった豚だ。キーキーという悲鳴が聞こえてくるのは、今にも殺されようとしているからか。
 どの豚なのかな、と少女はぼんやりと思った。
 まだらの豚、白い豚、黒い豚。子豚もいたし、大人の豚もいた。仕方が無い。豚は殺されるために生きるのだ。けれど、ついさっきまで自分が連れ歩いていた豚が、今には肉になってしまうのだと思うと、なんとなく、ひどく不思議な気がした。
 どちらにしろ少女は関係の無い話だろう。彼女は肉なんかの相伴に預かれるはずが無いのだし、豚というのはどちらにしろ殺されるために存在しているのだから。
 ついさっき、カスパールのくれたパンとチーズを食べたから、おなかはいっぱいだった。腹いっぱいなにかを食べたのは久しぶりだった。足は泥だらけだし、頭はいつものように垢だらけだけれど、カスパールが撫でてくれたのだからと思うと少しうれしい。
 カスパールは、昔から、少女にとても優しかった。それに、『あかずきん』と少女を呼ばないのは、カスパール一人だけだ。
 なぜカスパールがやさしいのかは分かっている。カスパールは生まれる前に死んでしまった妹を自分に重ねているのだろう。
 カスパールの母親は、身体の弱い、やさしい女だったという。彼女はカスパールの妹に当たる子を産むときに、難産に耐えられずに死んでしまった。そのうえ生まれてきた赤子も、ほんの数日しか生き延びることが出来なかった。きょうだいが出来ることを楽しみにしていたカスパールが、どれだけそれを悲しんだことか。
 正確なことはわからないが――― おそらく13・4歳にあたる少女は、ちょうどその妹と同じくらいの年にあたる。親も兄弟も無く、誰からも庇護されることのない少女に、生まれてこなかった妹を重ねて、カスパールは、ひどく不憫に思っているのだろう。この村初めての騎士様であるカスパールを兄として慕うなど、少女にとってはとんでもないことだ。だが、カスパールのやさしさは、ほかのだれも少女に与えてくれないものでもある。だから、カスパールがこの村に帰ってきてくれたことは、少女にとっても、素直にうれしいことでもあった。
 素足のまま外に出る。木苺を摘むんだったら森のそばまで行かないと。夕暮れまでに急がないといけない。小走りに道へと駆け出すと。
「あかずきん」
 呼びかけられて、少女は、つんのめるように立ち止まった。
「……ど、ドロテア?」
 樹にもたれかかるようにして立っていたのはドロテアだった。萌えいずる草花をびっしりと刺繍したエプロンを、細かなプリーツのスカートの上に重ねて、身体にぴったりとした赤い胴着。そして、梳られて絹のような光沢になったやわらかな茶色の髪。その上の赤いヘッドドレス。
 つまらなさそうに少女を見やったドロテアは、つま先で立ち上がると、ぴょん、と少女の前に飛び出した。
「ね、素敵なドレスでしょ」
 くるり、とドロテアが回転すると、スカートがふわりと広がった。赤いモロッコ革の靴。
「う、うん……」
 たしかにドロテアはきれいだった。アーモンド形の瞳が勝気そうで、ふっくらとした唇はきれいな桃色をしている。つやつやとした髪。少女は、みすぼらしい自分の姿が、急に恥ずかしくなる。
「私、これから母さんといっしょにカスパールの家にお給仕に行くの。でも、カスパールはいつも王都で美味しいものを食べてるんだろうし、きれいな人をたくさん見てるんだと思うから、私のことをちゃんときれいだって思ってくれるか心配。ね、あかずきんはそうおもわない?」
「うん……」
「だから、ね、あかずきん」
 ふいに、ドロテアは、ぐいとあかずきんに顔を近づけた。眼を細めた笑顔。花の香りのする甘い息。
「さっき、カスパールから、可愛い鈴をもらってたでしょ?」
 少女は、心臓が、ぎゅっと縮まったように感じた。
 ポケットの中で手を握り締める。その手の中には、ちいさな銀の鈴がある。
 さっき、カスパールからもらった鈴だ。お守りの銀の鈴。
「ねえ、あの鈴、私に貸してくれない?」
「え……」
「だって、どうせあかずきんは、村長さんの家のお食事になんてこられないじゃない。あかずきんは可愛い服だって着ないんだし。だったら、あんな可愛い鈴飾りなんて必要ないでしょ?」
 だって、ほら、とドロテアは胴着の腰を示した。胴着の飾りベルト。
「私ね、ここにつける飾りがほしいの。いろいろ試してみたんだけど、いまいちこの服に合うのが無いんだもの。困っちゃった」
 少女は、にわかに、心臓がどきどきしはじめるのを感じた。手が汗ばむ。懐の中で、ぎゅっと鈴を握り締める。
「わたし……」
「ねぇねぇ、はやく貸してよ。早くしないと、木苺を摘む時間がなくなっちゃうでしょ?」
 少女よりも長身のドロテアは、立ちふさがるように前に立っていた。
 黙りこくっている少女を見下ろして、ドロテアは、いらだったように唇をゆがめた。
「だいたい、あかずきんには『魔よけ』なんていらないでしょ?」
 びくん、と少女は身体を振るわせる。ドロテアは笑った。嗜虐的な笑み。

「だって、あなた、『魔女』の子だもんねぇ?」

「あかずきん!」
 ふいに背後から、鋭い叫び声が、少女の背中を叩いた。
 家の窓から顔を出しているのは叔母だった。立ち止まっている少女とドロテアを見、いらいらと怒鳴りつける。
「何をやってるんだい、あかずきん! さっさと木苺を摘みにお行き! ……ドロテアも、こっちに来るんだよ。村長さんの家にワインを持っていくんだろう?」
「はあーい。あかずきんがお願い聞いてくれたらねー」
 横目で少女を見下ろしながら、これみよがしにドロテアは言う。叔母は顔をしかめた。
「なんだって?」
「あのね……」
「や、やめて! 言わないで!!」
 少女は、悲鳴のような声を上げた。
 叔母がこちらをにらんでいる。その眼が怖かった。怒らせれば何をされるか分からない。けれど、何をされるよりもなお、この家を追い出されてしまうことが怖い。だって、この家を追い出されてしまったら、少女にはどこにも行く場所なんて無いのだから。
 あわててポケットから手を出す。そして、銀の鈴を差し出した。ドロテアはにこりと笑う。
 ひびわれた指を、いっぽんいっぽん剥がされていく感覚は、まるで、肉の中に抱き込んだ真珠をほじくりだされるかのようだった。少女はもう片方のこぶしをぎゅっと握り締める。手のひらに爪が食い込むほどに強く。
「ありがと、あかずきん」
 あっさりとその手から鈴を奪い取ると、ドロテアは、うれしそうに笑った。そして、紐を腰の飾りベルトに結びつける。チリン、と鈴が音を立てる。
「ふふ、すてき。ねえ、この鈴、あなたからもらっちゃったってカスパールに言ってもいいよね?」
 少女は何も言わなかった。何も答える気力が無かったのだ。
「ほら、ドロテア! あかずきん! さっさとしな!」
「はあーい」
 少女の返事を待たず、ドロテアは、つま先で踊るようにして叔母のほうへと駆け出していった。少女はしばし、そこに立ち尽くしていた…… やがて、ようやく木苺のことを思い出して、のろのろと歩き出した。




 自分には何も所有するものは無い。そのことは知っていたし、もう、慣れきってもいた。
 村はずれ、樫の林のそばまで行くと、茨の藪にいくつもの木苺が実っている。赤や黄色。宝石のようなとりどりの色。
 村はずれはもう『暗い森』に程近い。近づく人の影も少ない。頭上を大きな雲が通り過ぎ、大きな影をまだらに落としていく。
 今日は空腹ではない。その分幸福だ。今日はカスパールに頭を撫でてもらった。その分幸福だ。
 自分が誰にも省みられないのも、いつも空腹で、ボロボロの服を着ていて汚いのも、仕方の無いことだ。だって、自分は『魔女』の子なのだから。
 そういう風に思いながら、少女は黙って木苺を摘んだ。
「あ、痛っ!」
 ふいに、顔に、木苺の棘が引っかかった。少女は短く悲鳴を上げた。
 あわてて手で触れてみると、指先に血がついている。木苺の棘で引っ掛けたのだ。少女はため息をつく。そして、指を口に運んだ。
 背後を顧みると、坂道の上に、遠く、麦畑が広がっている。その向こうに見えるのが石造りの村の家々。眼前を見下ろすと『暗い森』がある。ここから一刻も歩かなくても、道は『暗い森』へと飲み込まれてしまう。
 少女はぼんやりと『暗い森』の方を見つめた。
 ―――少女の中に、かすかな記憶がある。
 頭上高く聳え立つ樫の樹。差し込んでくる木漏れ日。木々の根元にひっそりと咲いた白い花。木苺の実。
 小鳥が囀り交わし、栗鼠はこずえの間を飛びまわった。木々から落ちた木の実を拾い、皮を割ってかじった。そのほんのりと甘い味。
 そして、差し出される、誰かの白く優しい手。金色の瞳。
 ……ありえない記憶だ。
 『暗い森』の中に人間が住めるはずが無いのだから、こんな記憶もあるはずが無い。そもそも自分は物心がついたころには農場の馬小屋に暮らしていたのだから、森の中に住んでいたという記憶などもあるはずがない。
 けれど、少女は、木苺を摘むことも忘れて、ぼんやりと森に見とれた。空は青く晴れ上がり、太陽は天頂を過ぎて、まだらの雲が空を流れていく。
 森は黒いほどの緑色に静まり返り、かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。風が吹くと、ざざ、と森が揺れるのが感じられた。まるで手招いているようだ、と思う。なぜだろう。人間を拒むはずの、『暗い森』なのに。
 そのとき、だった。
 ふいに、がさり、と音が聞こえて、藪がゆれた。少女は振り返る。
 息が止まった。
 ゆっくりと藪がゆれて、何かが現れる。黒い毛皮。ゆっくりと尻尾を揺らしながら、四足のものが現れる。金の瞳が少女を見据えた。

 狼。

「……ッ!!!」
 息も出来なかった。少女はその場に硬直し、立ち尽くす。
 一匹だけだった。けして大きな狼ではない。せいぜいが大きめの犬ほどの大きさだろうか。それが、ゆったりとした足取りで近づいてくる。
 かすかに口から覗いた白い牙。赤い舌。どうして? 少女は混乱する。なぜ、こんな場所に狼がいるの?
 少女の手から、籠が、滑り落ちた。
 足元に木苺が散乱する。赤や黄色。宝石のような色彩。
 近づいてきた狼は、その木苺に鼻を寄せ、ふんふんと匂いをかいだ。はだしの少女の足にも鼻を寄せる。冷たく濡れた鼻が足に触れて、少女は、身体がカタカタと震え出すのを感じる。
 食われる。
 周りに人影は無い。誰も助けてくれない。このまま狼に襲われても、誰も気づいてくれないだろう。そもそも、こんな村はずれには、近づいてくる人すら少ないのだから!
 近づいてきた狼は、ぐっ、と伸び上がると、少女の胸に前足を置いた。
「―――!!」
 少女は思わずぎゅっと目を閉じる。狼はふんふんと少女の顔の匂いをかいだ。
 そして、べろり、と生暖かい舌で顔を舐めた。
「え……」
 棘にひっかかれた傷跡を、狼は、丁寧に舐めた。少女は思わず目を開ける。おどろき、狼を見下ろした。
「おまえ……」
 金色の目の狼は、はたはたと尻尾を振っていた。
 何が起こったのかわからない。けれど、少女は、おそるおそる手を伸ばす。狼の首の辺りに触れてみた。狼は大人しくしている。荒くて暖かい毛皮。震える手で撫でてやると、狼は心地よさそうに目を閉じた。
 何がなんだか分からなかった。けれど、敵意は無いらしい。少女はしゃがみこんだ。狼はおとなしく地面に座る。金色の目で、少女を見つめた。

『カエロウ』

「……え?」
 何か、声が聞こえた気がして、少女は、目を瞬いた。

『カエロウヨ』

 少女は、おどろいて、狼を見つめた。
「おまえ……?」
 狼はむろん何も言わない。ただ、黙って少女を見つめている。あらためて少女は問い返そうとする。だが、そのとき、狼はふいと身を翻した。
 呆然と見送る少女の前で、狼は走り出す。ちいさな影は、黒い風になって、まっすぐに森へと走り去っていった。



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