20
あかずきんと老婆は、よろめきながら森の中を歩いた。
日はしだいに暮れていき、森にひそやかに闇が下りてくる。藍色の陰影。梢の交錯する影の下で、あかずきんは、自分の体に寄りかかった老婆を必死の思いで支えていた。やせっぽっちの小柄な体には、骨と皮ばかりの老婆も重い。地面に滴る血の跡。
「おばあちゃん…… 大丈夫、おばあちゃん?」
「ああ、ああ、大丈夫だよ……」
だが、老婆の声は力ない。顔から流れ出す血で服がしとど濡れていた。矢を抜いた肩からも血が流れる。あかずきんは泣きたくなった。だが、ぐっと飲み込む。泣いて許されたことなど一度もなかった。きっと今日だってそうだ。
そして。
―――二人のまわりを、ひたひたと、いくつもの影が歩いている。
それは狼たち。灰色の毛並みの狼たちの群れだ。何匹もの狼たちが、下草を分け、二人の周囲を囲むようにして歩いていた。悄然とうなだれて。
あかずきんはもはや恐れない。だが、金茶色の瞳にわずかなおびえをにじませて肩越しにうかがう。
やがて足元に踏み分けた細い道が現れ、木作りのささやかな柵が現れる。薬草園、傾いた古木、小さな小屋。あかずきんは小屋の中に老婆を連れて、わらの寝台に手伝い寝かせた。老婆はうめいた。あかずきんは唇を噛んだ。
「お水、くんでくるね」
部屋の中を探し、布を見つけ出す。外で行って井戸の水を汲む。すぐに戻り、絞った布で老婆の顔の血をぬぐった。そしてふと疲れ果てた狼たちがたたずんでいるのを見て、井戸の水を手桶に汲んだ。狼たちはすぐに水を飲み始める。あかずきんはほんのわずかに表情をゆるめ…… すぐに泣き出しそうな顔になって、部屋の中に戻った。
老婆の顔に、大きな刀傷が残っている。
大きく裂けた目が片目をえぐっていた。血が止まらない。絞った布で血をぬぐい、わらの束を当てて流れる血を吸わせる。ほかに何ができるか。あかずきんはふるえる声で問いかけた。
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
「……あかずきんや」
老婆がほそい声でつぶやいた。あかずきんは顔を上げた。
「なあに?」
「……どうして来たんだい。来るなと言ったじゃないか」
あかずきんの胸がどきりと鳴った。
「ご、ごめんな、さ……」
「怒ってるんじゃないよ」
老婆はかすかに微笑んだ。手を伸ばす。しわだらけの手が、赤いずきんの頭をなでた。
「どうしてあの村の場所がわかったんだい。なんで来ようと思ったの」
あかずきんはうつむいた。ちいさくしゃくりあげる。つぶやいた。
「声が、聞こえたの」
あのとき、聞こえたのだ。
「みんながね、怖いよ、たすけてよって、泣いてたの」
―――あのとき、あかずきんは、言われたとおりに家の中に閉じこもっていた。
あたたかい寝台と、炉辺で焚いた香草の匂いのする家。明けた窓から差し込む光に、埃がきらきらと光っていた。
祖母と『裂け耳』はどこかへ行ってしまったけれど、あかずきんの心に不安はなかった。あのふたりのことだったら心配はいらない。きっとあかずきんを守ってくれると言っていた。
生まれてはじめてのあたたかい家。誰からも叱られず、叩かれず、心やすらかにいることができる家。
脱脂しない毛布とわらを積んだ寝台の間にもぐりこむ。太陽のにおいと香草のにおい、獣のにおい。
生まれてはじめてのやすらかな時間。あかずきんはいつのまにか寝台の中でうとうととまどろみ始めていた。誰かに抱かれているような幸福。そんなものは初めて感じた。―――初めて?
イヤ、チガウ。
シッテイル。
『―――』
ダレ?
『わたしのかわいい嬢や』
オカアサン。
ほほをなでる手。やわらかい太陽と香草のにおい。やさしい金色の目。あたたかな胸。
おぼえている。ちいさな家。香草の茂った庭。木陰にあそぶ羽虫と、庭の片隅に転がった穴の開いた桶。
『ねえ、嬢や。おぼえていて』
オカアサン?
『あなたはね、きっと―――』
……オカア、サン?
あかずきんは、ふいに、目を覚ました。
寝台からがばりと身を起こし、周囲を見回す。寝覚めの夢のなかで水をかけられたような冷たいおどろき。
かすかな夢の残滓が、胸のどこかを甘苦く痛ませていた。けれど、あかずきんを起こしたものはそんなものではなかった。あかずきんは胸騒ぎに立ち上がり、寝台から降りる。窓際に駆け寄って、閉じかけていた窓を大きく開いた。
「誰?」
風が吹いて、ざわざわと森を揺らしていた。病葉が吹きちぎられていく。水色と白、灰色と青がマーブル模様に入り混じった空。
「だあれ?」
誰かが呼んでいる、とあかずきんは気づく。声ではない。声ではない悲鳴のようなものが、風に吹き散らされながら、遠くから響いていた。
たすけて、と呼んでいる。
こわいよと、しにたくないよと、いくつもの幼い声が叫んでいる。それと母たちの声。子供たちを守りながら、恐怖に絶叫する母親たちの声。
あかずきんは服の胸をつかんだ。心臓が動悸しはじめる。引き寄せられるように小屋を出た。高く茂った香草の間に立ち、風の中の聞こえない悲鳴に耳を済ませる。
思わずあかずきんは、声を上げていた。
「ねえ、だあれ?」
ざわざわと森が手招いた。身もだえ、あかずきんを呼ぶ。
たすけておくれ、たすけておくれ。
たすけておくれ、あかずきん。
お前のことを、呼んでいるんだよ。
あかずきんはしばし逡巡した。けれど、一歩を踏み出すと、つられるようにもう一歩が前に出た。いつしかあかずきんは手招かれるようにふらふらと森の中へと迷い込んでいった―――
ためらいながら訥々とつぶやいた言葉。それが途切れると、あかずきんはうつむいた。老婆が手を上げると、あかずきんはびくんと身を縮ませた。
だが。
「かわいいあかずきん」
老婆のしわぶかい手は、あかずきんの頭の上にやさしくおかれた。
「それはね、子供たちが呼んでいたんだよ」
「……?」
あかずきんは顔を上げる。片方だけ残された眼が、慈愛を含めて微笑んでいた。
あかずきんにはわけがわからなかった。老婆は手を上げて外を指差した。あかずきんは外を見た。そこには深く草が茂っていた。羽虫がかすかに舞う香草の花の下に、何匹もの狼たちがうずくまり、窓を見上げていた。
あかずきんは見た。そこに、何匹もの牝の狼たち、そして、仔狼たちが、うずくまっている。
窓から身を乗り出すと、一匹がのそりと起き上がる。裂け耳だった。金色の目が深い感謝を込めてあかずきんを見上げていた。
「お前の仲間たち、あたしたちのこどもたちが呼んでいたのさ。聞こえたんだねえ。お前にもねえ……」
「狼が、しゃべったの?」
あかずきんは思わず問い返す。老婆は微笑んでいた。
「聞いたんだろう、あの子らの声を」
いとおしむように頬を撫で、髪を撫でる。あかずきんは老婆の手の上に手を重ねた。
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
「ああ、そうだねえ。お前はたしかにあたしの娘の子だよ。だいじなあたしの孫だ。誇り高い影狼の娘だよ……」
しだいに老婆の声はうわごとのようにぼやけていく。血はとまらない。顔の傷に当てたわらの束が、赤黒い血を含んで重たく濡れた。だが、どうしたらいいのかもわからなかった。あかずきんは何も知らないのだ。どんな草が血を止めるのか、けが人には何をしてやればいいのか。なぜ血が止まらないのか。
そして。
なぜ、老婆が、カスパールたちと、戦っていたのか。
あかずきんは見たのだ。
それは、まるで現実感を感じられない、物語の中のもののような光景だった。
闇が凝ったような巨大な狼、それが、顔の傷跡から血を滴らせながら、森の中を走った。
そして、やがて立ち止まった狼が、咥えていたあかずきんを地面に下ろす。あかずきんは呆然と狼を見上げていた。漆黒の毛皮、燃える黄金の瞳、長い尾を持つ巨大な狼を。
やがて、狼の姿がふいに薄れ始める。影が薄れ、色彩を取り戻す。まるで嘘のように巨大な狼の姿は消えた。そして、がくりと地面に膝をついたのは、小柄な体の老婆だった。そして呼んだ。
「あかずきん」
―――ほほえみながら手を伸ばすその顔には、恐ろしい刀傷が残り、真っ赤な血が、胸を濡らして流れ落ちていた。
『おばあちゃん、おばあちゃんは、狼なの?』
ほんとうは問わずとも答えは分かっていた。あの闇色の狼を見た瞬間、あかずきんには何故か分かったのだ。それが己の祖母であると。
けれど、あかずきんはその言葉を呑み込んだ。口にすることが恐ろしかった。肯定されることも、嘘をつかれることも、恐ろしかった。
老婆は低く呻いた。血は止まらない。
あかずきんは泣きそうになるのを必死でこらえた。代わりに老婆の手に手を重ねたまま、何度も、何度もうなずいた。
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