23
祖母の意識は、朝になっても戻らなかった。
あかずきんがそっと戸を開くと、玄関の前に腹ばいになっていた『裂け耳』が、敏感に目を覚ます。ヘンルーダやオトギリソウ、ディルの茂みの間で顔を上げる。
「おはよう、『裂け耳』」
あかずきんはすこし微笑むと、露にぬれた鼻面をなでた。
「いってくるね」
そして、そのまま薬草園を抜けて、森のほうへと歩き出した。
森は朝霧の中に沈み、ミルクをうすめたような白い霧が、木々の枝葉をぬらしていた。地面にも朝露が降り、葉がゆれるたびにちいさなしずくが落ちてくる。そんな中をあかずきんは決然とした足取りで歩いていく。不安げに立ち上がった『裂け耳』は、その後を追って歩き出す。
あかずきんは肩越しに振り返り、少しだけ笑った。
「ごめんね、『裂け耳』。ついてこないで。……わたし、村に戻るの」
言葉の意味は分からなくとも、不穏な気配は察したのだろう。『裂け耳』はあかずきんの後を追って森の中の道をついてくる。あかずきんは立ち止まり、困ったような笑顔で、『裂け耳』の頭をなでる。
「あのね…… おばあちゃんの怪我が、とても悪いの」
『裂け耳』は、くうん、と小さく鼻を鳴らした。
「熱があってね、おばあちゃん、とても苦しそうなの。でもわたし、お薬のことなんて何も知らないから、おばあちゃんに何もしてあげられない……」
語尾はかすかに震えていた。あかずきんはそれでも笑顔だった。涙をこらえて必死だった。
「このままだと、おばあちゃん、死んじゃうかもしれない」
―――祖母が、何か、『悪いもの』にやられたのだということは、薄々、あかずきんにも分かっていた。
傷の様子が悪すぎる。なにかの毒が傷口から入ったのかもしれない。発熱と止まらない出血。それが祖母の体を蝕んで、着実に体力を奪っていっている。
だが、あかずきんにできることは何一つとしてなかった。彼女は無知な子供で、薬草園がそこにあっても、何を用いれば祖母の怪我を癒せるのかも分からない。乾いた唇に口移しに水を与えることが精一杯。けれど、その程度の看病では、早晩祖母の命はないということは、あかずきんの眼にすらあきらかだった。
あかずきんは必死でどうすればいいのかを考えた。……その結果、思いついたことは、たったひとつだけだった。
誰かに助けを求める。
村に戻り、頭を下げて、どんなものでもいい、薬を手に入れてくるのだ。
―――村に戻るということが、何を意味しているか、分かっているつもりだった。
叔母は、村を出て行かなければ殺すといった。叔母は本気だった。みつかれば殺されてしまうかもしれない。ましてや祖母は人間ではなく、狼かもしれないのだ。狼の傷を癒すための薬草など、いったい誰が用意してくれるというのだろう。
けれども、ほかの手段は何一つとして思いつかないのだ。あかずきんは幼い頃から村で暮らしていた。どれほど冷たく、よそよそしい場所であったとしても、確かに村はあかずきんの居場所だった。その居場所に戻り、薬を手に入れる程度のことくらいならば、ゆるされてもいいはずだ、とあかずきんは必死で思おうとする。
殴られても、蹴られてもいい。もしかしたら殺されるほどのひどい眼に合わされるかもしれない。けれど、ほかに方法などないのだ。
籠には、家を物色して、何か価値のありそうなものをいくつかつめてきた。丁寧な細工の布や、色石を削ったらしい飾り物。これらにどれほどの価値があるかは分からないけれど、なんとかして、それと交換に薬草を手に入れてくるつもりだった。
「『裂け耳』……」
あかずきんは立ち止まり、振り返った。しゃがみこみ、ぎゅっと『裂け耳』を抱きしめる。深い毛皮に顔をうずめた。
「家に帰って。おばあちゃんを守って。……あと、おかあさん狼と、子どもたちを大切にね」
『裂け耳』はふたたび切なそうに鼻を鳴らした。あかずきんに毛皮をすりよせ、その手を舐めた。けれどあかずきんはすぐに身を引き離した。
「じゃあ、行ってくるね」
あかずきんはすこし笑い、小さく手を振った。そして走り出す。
赤いずきんの背中が霧のかなたに消えるまで、『裂け耳』は、せつなげにその後姿を見送っていた。
森の中の小さな家から、村にたどり着くまで、あかずきんの足で数刻ほどの時間がかかるだろうか。
朝霧がすっかり消え去り、朝焼けのばら色が空の青にとって変わられる頃、あかずきんは村はずれの樫の林にたどり着いた。いつもどんぐりを与えるために豚を連れてきていた村はずれの人工林だ。まるで10年の昔のことのようだと、あかずきんは森を通りながら考える。
薬草を持っていそうな人の心当たりはあった。村のはずれに暮らしている、薬草に詳しい老婆の家だ。
彼女は若い頃に夫を亡くし、黒い服をまとって娘一家を離れて暮らしている。崩れかけた石造りの家のまわりには薬草園が広がり、近づけばいつも煙から薬草のにおいがした。樫の林を過ぎ、その家に近づいていくにしたがって、あかずきんの鼻は風の中に薬草のにおいを嗅ぎ付け始める。
ふと、あかずきんは不思議に思った。わたしって、こんなに鼻がよかったっけ?
今、村に近づいたあかずきんは、風の中にさまざまなにおいを感じる。薪の燃えるにおい、パンを焼くにおい、家畜のにおいと…… 傷ついた人間のにおい。
けが人たちはどうやら村の教会に集められているようだ、とあかずきんは思う。
狼たちと争って怪我をした人たち。あかずきんは顔をくもらせた。もしかしたら彼らの中には祖母である狼が傷つけた人もいるかもしれないのだ。ほんとうにここにきたことが正しいのか分からなくなりかけて、あわてて頭をひとつ振って、よけいな考えを追い出した。
石造りの家にたどり着いたとき、ちょうど、ひとりの老婆が、薬草園で香草を摘んでいるのが見えた。烏のように黒い背中が、ちょこちょこと畑のなかを動いている。
「あの…… すいません」
あかずきんはひかえめに声をかけた。老婆は振り返り――― あかずきんを見つけると、棒のように立ち尽くした。
「あ、あんた」
温厚そうな丸顔の老婆だった。頬はまるでりんごのように赤い。頭の後ろでゆわえた白い髪。やさしそうな人だ、とあかずきんは思う。けれども、今、その顔は驚愕でゆがんでいる。
「すいません、たすけてほしいんです」
老婆が声を上げる前に、あかずきんは急いで駆け寄った。ざんばらに刈られた黒髪が揺れた。
老婆は口を押さえて悲鳴を飲み込んだが、眼は大きく大きく見開かれていた。その瞳が語ることはたった一つ…… なぜ、彼女がここにいるのだ?
老婆のそばまで駆け寄ったあかずきんは、急いで頭を下げる。老婆はまじまじとあかずきんを見つめた。
「あんたは…… まじょの」
魔女? なんのことだろう。けれど、気にしている余裕はない。あかずきんは急いでいった。
「あの、いきなりびっくりさせて、ごめんなさい。でも、お願いがあるんです。薬を分けてください!!」
早口に訴える。あかずきんは必死だった。ここで断られたら、二度目はないのだ。
「わたしのおばあちゃんが怪我をしてるんです。血が止まらなくて、熱が…… おねがいです、たすけてください!」
老婆は何度もつばを飲み下して、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。あかずきんを見下ろす。そして、長い長い間が空いた。あかずきんは黙り込み、そして気づいて、あわてて籠から布や石細工をとりだす。
「あの、かわりにいろいろなものを持ってきました。お、お金はないから…… で、でも、しろと言われたことはなんでもやります。だから、薬をください。おねがいします」
あまり長い言葉を一気にしゃべったことはなかった。だから少女はつっかえつっかえに訴えた。老婆はなんともいえない表情であかずきんを見下ろしていた…… やがて、その表情にぼんやりと理解の色が浮かんでくる。あかずきんはうつむいていたのでその表情の変化に気づかなかった。
「……おいで」
ふいに老婆は手を伸ばし、あかずきんの手をつかんだ。籠が地面に落ち、刺繍の布や、石の細工が散らばった。あかずきんは驚いた。老婆は猫なで声で言った。
「わかったよ。薬を分けてあげよう」
「ほ、ほんと、ですか?」
「中へおいで。地下室で薬草を選ぼう」
落とした籠を気にするまもなく、家の中へと招かれる。老婆は歩いていく。台所の隅の木の扉を開けた。そこには地下へ続く階段があった。あかずきんは招かれるままにそこへともぐりこんだ。
湿っぽい土の地下室。壁には無数の棚が作られ、いくつもの小さな壷や瓶の中に薬草からつくった精油やエキスが保存されている。強いにおいが鼻をついた。
「いろいろな薬があるよ。どれがいい。血を止める薬、熱を下げる薬、化膿止めの薬……」
どれものどから手が出るほどほしい薬だ。あかずきんは思わず声をあげかけたのを、あわててこらえた。棚に駆け寄る。いくつかの瓶を手に取った。そして、ぶしつけだと気づいてあわてて棚に戻す。ふりかえると老婆は階段の下であかずきんを見ていた。
「ほんとうに分けてもらえるんですか?」
「ああ。あたしの薬は効くよ。……魔女のつくった薬ほどじゃないけどね」
どういう意味だろう? 妙な言い回しをふと疑問に思う。
老婆は、ぽつりと言った。
「ところでおまえのばあさんは、どうして怪我をしたんだい?」
あかずきんはあやうく瓶を取り落としそうになった。
あかずきんは声を失う。いえない。いえるわけがない。あわてたせいで声がつまった。
「あ、あの、それは……」
あわてるあかずきんを、老婆は表情のない眼で見る。そして、再び言った。
「あたしの薬は利くけれど、死んだものをよみがえらせる薬はないんだ」
「え……」
「あたしの息子はね……」
老婆は、つぶやきながら階段を上っていく。あかずきんは立ちすくんでいた。その瞬間、老婆は地下室の扉をくぐる。逆光で人のよさそうな老婆の顔が夜叉になる。老婆は恐ろしい声で叫んだ。
「きのう、狼に殺されたんだ!!」
その瞬間、恐ろしい音を立てて、地下室のドアが閉められた。
あかずきんはとっさのことに反応できなかった。瞬間、呆然とする。次の瞬間、われに返るよりも先に、何か重い音ががした。老婆が外から棚で地下室のドアをふさいでいるのだ。
あかずきんはようやく悟った。―――閉じ込められた。
「……!!」
あわててドアに駆け寄り、ドアをたたく。あかずきんは叫んだ。
「あ、あけてください! どうして!? あけてください!!」
だが、返事はない。ドアはびくとも動かない。地下室の中は真闇に閉ざされた。
老婆の駆け出していく足音がかすかに聞こえた。誰かを呼びにいったのだ。
あかずきんは、地下室の闇の中にひとり残され…… 呆然とした。
……閉じ込められた。
「おおかみに、殺された、って……」
あかずきんは、老婆の言葉を呆然と繰り返す。
どういう意味なのだろうか。どういう意味だ?
だが、すぐに我に帰る。こんなところに閉じ込められている暇はない。祖母を助けなければいけないのだ!!
あかずきんは扉に飛びついた。狂ったようにたたき始める。悲鳴を上げた。
「あけてください! だめなの! おばあちゃんが死んじゃう! あけてください!!」
だが、もはや返事はなく…… 扉が開く気配は、微塵もない。
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