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 15年前のことだった。
 ひとりの青年…… ヴォルフ・ヘイズが森に姿を消したのは。
 ヴォルフは感じやすく、繊細な性質の青年だった。小鳥や動物たちを愛し、草笛を吹くことが誰よりも上手かった。けれど人と交わることをあまり好まず、穏やかな笑顔を浮かべていても、にぎやかな交わりの中においてはいつも孤立しているような少年だった。
 そんな青年が、森へと姿を消した―――
 誰もがヴォルフは死んだだろうと思った。森は人の踏み入ることをゆるさぬ土地だ。魔物たちが跋扈し、悪魔どもが住まう。おとなしいヴォルフがもはや生き延びていようとは、その姉のエンマですらも思いはしなかった。
 けれど、ヴォルフは帰ってきたのだ。姿を消してから、半年のときを過ぎて。
 村に帰ってきたヴォルフは、ひとりの娘を伴っていた。長い闇黒の長い髪と、黄金の瞳。白い肌を持つ異邦人の娘。
「彼女は僕の妻です」
 ヴォルフは言った。その声は、かつてのヴォルフからは想像もつかぬほど、決意に満ちたものだった。
「僕たちは彼女のふるさとから追われました。帰る場所はもうここしかない……」
 そして、彼はひそかに明かした。
 彼女は森の娘であると。……その身は人間ではないのだ、と。



********



 雲は強い風にちぎれ飛んだ。荒野の草は波のようになびき、弱い冷夏の日差しに香りたつ。空の高いところを雲雀が飛ぶ。
 隣村に老神父を送り、帰りの道をたどりながら、カスパールは、聞いた話を心の中で反芻し続けていた。
 ―――15年の間、秘匿され続けた、ふるさとの村の秘密。
『ヴォルフの連れ帰った娘は魔女でした。異端の魔女を村に入れることなど出来るわけないと皆が反対した。けれど、二人は傷つき、疲れ果てていた……』
 二人は、おそらく、森を追われたのだ、とカスパールは思った。
 眼前だとヒースの野がゆれていた。踏みしだいた草の強いにおい。苦い思いで思う。やさしい夜髪とおだやかなヴォルフ。彼らは、おそらく、森からすらも拒絶されたのだと。
 森のことなど知る由もないが、人間たちが森を拒むのと同じほどに、森のものたちが人間を嫌うということもありえぬ話ではないように思えた。
 村での孤立に耐えかね、何かを望んで森へと入り込んだヴォルフは、どこかで夜髪に出会ったのだ。そして二人は寄り添うあうようにして生きることを選んだ。それによって夜髪は森を追われ、逃げ出した二人は故郷の村へと帰ってきた。
『我々は彼女を受け入れることを認めた。けれど、その条件として、ひとつの契約を結んだのだ。―――森に生きるものたちの秘密を明かせ、と』
 森に暮らすものたちのことは、いまも、謎に包まれている。
 たとえば人狼が銀の武器でのみ傷つくということは知られているが、彼らについて知られていることは驚くほど少ない。彼らが何を食べ、何を飲み、どうやって生きているのかなど、誰一人として知らないのだ。
 夜髪は当然のようにそれを拒んだ。森を裏切ることはできない、というのだ。けれども、村人たちはヴォルフと夜髪をその地所に住まわすことを条件に、契約を迫った。その結果、夜髪はいくつか森のものたちの真実を明かした。その内容を詳しく知っているのは村長だけだ。村のものたちは夜髪が人間ではないということすら知らない。けれど、老神父もその内容のわずかな一部は知っていた。
 それは、森に住むものたちは、けっして契約(ゲッシュ)を破ることが出来ない、ということだった。
「契約、か……」
 カスパールはぽつりとつぶやく。それこそが父の、そして、村の大人たちの不可解な言動の真相だったのだ。
 そう、夜髪は、村の一員として認められることと引き換えに、ひとつの契約をしたのだ。
 
 『我が血と骨のある限り、森に属するものは汝らを傷つけまじ』

 血と、骨。
 血は、あの少女だ。やせっぽっちの小さな娘。夜髪の娘である金の瞳の少女。彼女の存在が夜髪の『血』として村を狼たちから守り続けていたのだ。けれど、彼女は村から姿を消した。契約の鍵のひとつが失われて、村を守っていた契約は弱体化してしまった。だから狼たちが村へと近づき、ついには村の中にまで現れた……?
 いや、逆だ、とカスパールは思う。ドロテアが襲われたとき、まだ彼女は村の中にいたはずだ。なにかがおかしい。なにかがねじれている。
 そして、もうひとつの契約の証は、『骨』。
 ―――カスパールは、腹の底が冷たくなるような、嫌な予感を感じる。
 村人たちは狼の牙を持っていた。そしてその牙は村人たちを狼たちから守る力を持っていた。
 ならばあれは、夜髪の『骨』だったのではないか。だが、なぜそれが狼の牙なのか。そして、それが村人たちの手のなかにあったのだ?
 夜髪は村を捨てて行方をくらませ、ヴォルフは狼に襲われて死んだ。そういうことになっている。
 だが、それは嘘だ。
 まだ隠されている事実がある。それも、おそらくは、ひどく忌まわしい事実が。
 うつむき加減に荒野を急いでいたカスパールは…… ふいに、風が吹き散らしてきた『何か』に気づいて、目を上げた。
 それは、遠い、狼たちの吼え声だ。
 遠く、暗い森がみえる。そして、丘やくぼ地を連ねて、荒野は延々と続いている。その間に走る細い道。故郷の村までは、まだ一刻ほどもかかるだろう。
 カスパールは立ち止まった。自分でも分からない『何か』を待った。
 そして、それは、ゆっくりと丘を登ってきた。カスパールはとっさに銀剣の柄に手を置いた。
「……狼」
 それは、体の大きい、灰色の毛皮を持った狼だ。
 狼は通常群れで行動する。だが、ほかの狼の姿は見受けられない。狼は金色の目でカスパールを見据えた。奇妙にしずかな眼。
 カスパールはふと気づく。その狼は、片耳が大きく裂けていた。
 まるで犬のように座り込み、狼はじっとカスパールを見つめた。その姿に敵意は見られない。カスパールはそろそろと剣の柄から手を下ろす。
「何者だ、お前?」
 狼は何も言わなかった。黙ってカスパールを見つめる。
「人狼か? それとも魔物か? ……俺になんの用だ」
 狼はしずかに立ち上がると、風の中のにおいを嗅いだ。そして、村のほうを見る。
 カスパールも、つられて村のほうを見た。
 まだ遠い。何も見えはしない。だが、ふいに奇妙な胸騒ぎを覚える。
「村で何かが起こったのか?」
 狼は答えない。だが、立ち上がると、村の方角へ向かって早足に歩き出す。そして、しばらくの距離を置くと、ふたたび立ち止まり、カスパールを振り返った。
 誘っている。
 カスパールは立ちすくみ、唇を噛んだ。何が起こったのかわからない。相手は狼だ――― 村の男たちを殺したのと同じ、狼だ。
 だが。
「……分かった」
 カスパールは短く答え、歩き出す。次第に足が速くなる。カスパールは走り出す。狼もまた、その傍らを風のように走り出した。
 風はつよく吹きつけ、荒野のヒースを波のようになびかせた。空では無数の雲が、千切れながら、渦を巻いて吹き飛んでいく。





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