25




  もう何度目になるか分からない。木の扉につきたてた爪が、嫌な感触とともに、ぶちり、と音を立てた。
「痛っ……」
 爪が、はがれた。
 あかずきんは声をあげ、唇をかみ締め、泣き声をかみ殺した。再び唇を強く噛む。はがれた爪もかまわずに、扉の隙間に指を立てる。ぬるりとした血の感触が指を滑らせた。
 真闇に覆われた、地下室。
 どれくらいの時間が過ぎたのかも分からなかった。誰も訪れず、なんの音も聞こえない。濃い薬草の臭いが立ち込めた闇。その中で、あかずきんは、必死でドアと格闘し続けていた。
 ドアの向こうは棚か何かで覆われてしまっているのだろう。引いても押しても開かない。だが、あきらめることはできなかった。ここであきらめてしまったら、祖母はどうなってしまうのだ、と思ったら。
 涙が何度も滲み出し、何度もそれをこらえて飲み込んだ。泣いても何も起こらない。泣いても誰も助けてくれない。なんとかしてここから逃げ出さなければならない。
 けれど。
 はがれた爪でなんどもこすったせいで、血で汚れた頬を、ひとしずくの涙が伝った。……音を立てて、土の床に落ちた。
 あかずきんはそれを見る。耳を疑った。そんな小さな音がなぜ聞こえたのだろう。
 疲れ果てた体で、わずかに動きを止める。何かを思い出しそうになった。
 ぬれたまつげを幾度かまたたくと、あかずきんは、ふいに気づく。……周囲の景色が、ぼんやりと闇に浮かび上がっている。
 さっきまでは真の闇だったはず。何一つとして見えなかったはずなのに。あかずきんは自分の手を見た。血まみれの指。ふとその指を口に運ぶと、鉄錆のにおいと、塩辛い味が口の中に広がる。
 胸騒ぎがした。何かが思い出せそうだった。こもった薬草のにおい。湿った土の闇。血の味。
 心臓の鼓動が奇妙に高まる。体がじわりと熱くなった。
 
 記憶の中で、声が聞こえる。

 ―――……

「……おかあさん?」
 ふいに、あかずきんは、悲鳴のような声をあげた。
 このにおい。この闇。この味。それは、母の記憶だ。母が呼んでいる。思い出そうとしているのは、母の言葉だ。
 あかずきんは棒立ちになった。闇に眼を見開く。何かを見ようとするように。
「おかあさん!?」
 おぼえていない、記憶の中にない、母。
 たった3歳のときに死んでしまった母。何もおぼえていない。そのはずだった。だが、この記憶はどうだ。たちまちのうちに母の記憶がよみがえる。その体温、そのにおい。何がおころうとしているのだ。あかずきんは頭を抱え、再びしゃがみこんだ。

轟々と唸る嵐。窓を打つ雨のしずく。

 まぶたの裏を光が明滅した。体が熱い。記憶がよみがえると同時に、あかずきんの体の中で何かがうずいた。何か熱いものが、内側からあかずきんの体を突き破ろうとしている。
「う……」
 何が起ころうとしているの。混乱する。だが、頭のどこかが冷静にささやいた。これは初めてではない。お前にとって初めての体験ではないはずだ。思い出せ。お前の本質を。
 お前の正体を。



「明けておくれ…… 開けておくれ!」
 どんどんどん、と扉をたたく音が響く。幼女はきょとんと目を見開いて、母の肩越しに扉を見つめる。吹き荒れる嵐の夜へと続く、古ぼけた木の扉を。
 村はずれの粗末な家だった。吹き荒れる嵐にゆすられて、ぎしぎしと音が響き、今にも崩れてしまいそうだ。閉じた窓の向こうの、夜色の嵐。いまにも消えてしまいそうな獣脂蝋燭の明かりだけがぼんやりと夜を照らし、テーブルの下にうずくまった母子を照らし出す。己の娘を硬く抱きしめ、震えている娘――― 母と呼ぶのが哀れなほど、幼く、あどけない娘を。
「娘や、帰って来るんだよ。今ならまだ間に合うよ。いっしょに帰ろう…… 帰ろう!」
 声は哀切な響きを帯びて、高くなっては、また、低くなった。嵐のわめき声と混ざり合い、渦を巻いて響く。娘は、耳をふさぐ代わりに、ただ、幼女を抱きしめて、泣き出しそうにつぶやいていた。つぶやきつづけていた。
「ごめんなさい…… ごめんなさい。ゆるして。おねがい、ゆるして」
「娘や、娘や!」
 幼女はきょとんと目を開き、母の肩…… つややかなブルネットの流れ落ちる肩越しに、扉のほうを見つめる。
 あれは誰だろう。こんな嵐の夜に。いったいどうしたというのだろう。なぜ母を呼んでいるのだろう。
 なぜ母は、返事をしないのだろう。
「おかぁ……さん?」
 おずおずと問いかける幼女を、娘は、ただ、ぎゅっと抱きしめた。押さえつけるように。
「返事をしちゃ、だめ」
 低い、けれど鋭い声。幼女は丸く目を見開く。
「お願い。お母さんと、約束をして」
「なぁに?」
「あなたは、決して……」
 幼女は、母の泣き出しそうな表情を、そして、そっと動く唇を、見つめていた。

「にくしみに、のまれないで」


 あかずきんは、雷に打たれたようなショックを感じた。
「おかあさん!?」
 立ち上がる。絶叫する。たった今、まるで今体験したものであるかのようによみがえった記憶。
 母の顔。母の体温。母の声。母の涙。
 あかずきんはすべてを思い出したのだ。
 そしてあかずきんは、呆然と己の手を見て…… 驚愕した。たった今はがれたはずの爪が。
 ゆっくりと、伸びていく。
 再生していくのだ。
「嘘……っ!?」
 傷が、治っていく。
 何が起こっているのだ。
 少女はおののいた。何かが起こっている。自分には計り知れない何かが。体が熱い。少女は思わず自分の体を抱きしめた。硬く硬く。そして、恐れの中で悟った。わたしは…… 
 
 人間では、ない?

 その瞬間だった。
 あかずきんはふいに、戸の外で誰かが話しているということに気づいた。
 

「たしかにこの中にいるのか?」
「はい。間違いありません」
 老婆に言われて、村長と数人の男たちが、黙って地下室を見下ろす。大きな棚でふさがれた、薬草保存のための地下室の入り口を。
「よくぞ捕らえてくれた」
「いえ…… だってあたしの息子は、この狼娘に……」
 丸顔の老婆は言葉を詰まらせ、袖で涙をぬぐった。村長はやさしくその肩をたたいてやる。
「この娘さえ捕まえれば、もう、大丈夫だ。よくぞやってくれた。これでもう、誰も狼の犠牲になんてならない」
 はい、と老婆は答えると、ようやく少し微笑んだ。そして、「行きなさい」といわれて、しずかに家を出て行った。
 扉が閉められると、沈黙が降りた。
「……まさか、娘のほうから村に戻ってくるとはな」
 男の一人がぽつりとつぶやく。「ああ」と誰かがそれに答えた。
「だが、森まで探しに行く手間が省けた。これで村も安泰じゃないか。よかったじゃないか」
 誰かが明るくそう答える。
「ああ、骨はいまもちゃんと井戸の中にあるし、あとはこの娘の血さえ絶やさなければいい話だ。今度こそ絶対にここから出さなければいい。ヘイズの家に面倒を見させるなんて甘いことをしないで、地下室に閉じ込めておけばいいんだ」
 村長は黙って地下室の扉を見つめた。……地下室の中から、かすかに、少女の声が聞こえた。
「だあれ?」
 弱弱しい、だが、力を振り絞ったような声だった。男たちは声をなくした。
「あなたたち、だれ。……何しにきたの。ここから出して」
 かぼそい声が、地下室の戸の間から漏れた。だが、その声が、まるで呪文のように男たちを呪縛する。彼らを呪縛する力、それは罪悪感だ、と村長は思った。同時にひどく苦々しい気持ちになる。
 臆病ものども。かれらはまだ怯えを捨てていないのだ。まるで人間のような姿をしたものにたいしてむごい仕打ちをすることへの恐れを。―――愚か者どもめ。『人間』だと?
「出せるものか」
 ほかの者たち怯えを壊そうとするように、村長は、強い口調で言った。
「もう、お前に逃げ出されるわけにはいかんのだ」
 かぼそい声が、言った。
「そうやって、わたしをお母さんから奪ったの?」
 はっ、と誰かが息を呑むのが聞こえた。声は細く、けれど、たしかに途切れずに続いた。
「わたしをお母さんから奪って、お母さんをころしたのは、だれ。……どうしてお母さんとお父さんを殺したの」
 男たちの顔には、たしかに狼狽の色があった。その視線は村長に集中する。村長は固く唇を引き結び、身じろぎもせずに地下室の戸を見つめた。
 そうだ。10年前のことだ。―――たしかに、ここにいる男たちは、両親である『夜髪』とヴォルフから、その子どもを奪い取った。
「村のためだ。うらんでくれるなよ。さもないとあいつらは村から出てくって言ってたんだ」
 男たちの一人が震える声でつぶやく。村長はその男をきつく睨みつけ、黙らせた。少女の声をことさらに無視するように声をあげる。
「ずっとここに閉じ込めておくわけにも行くまい。どこかに牢を作らねばな」
「あ、ああ……」
「そ、そうだな」
 男たちがぼそぼそと同意する。かぼそい声がなおも聞こえた。だが、それをさえぎるように、村長は声を強くする。
「格子をはめた檻に入れ、牛のように枷をはめて、誰でも好きなときに種付けができるようにすればいい。そうやってたくさん子どもを生ませれば、それだけ村が安泰になる」
 その発言に追従するように、誰かが少し笑った。
「だったら、きちんとしたものを食わせて、体に肉を付けさせないと」
「そうだな。まだ、孕めるような体じゃないからな」
「村のためだ。このさい、たくさん子どもをたくさん生んでもらわないと」
「村の連中も、好きなときに十分楽しめるようになるってもんだ」
 誰かがおどけたように言うと、下品な笑いがそれに答えた。それがきっかけになったようにひとり、またひとりと家を出て行く。村長ひとりは動かずに、石のような無表情で、地下室の戸を見つめていた。
 かぼそい声が、なおもつぶやいていた。どうして、と。
 どうして、わたしたちなの、と。
 その続きは聞こえかねた。だが、村長ははき捨てるようにつぶやいた。
「……貴様が狼だからだ、化け物め」
 そして、荒々しい足取りで家を出ていく。扉が音高く閉められた。



 


 あかずきんは、闇の中で、呆然と座り込んだ。
 何もかもが明らかになった。何もかもが。
 
 わたしのお母さんとお父さんは、殺されたんだ。
 わたしを奪い取られて。

 おそらく、両親は、何かの理由でこの村を捨てようとしていたのだ。だが、それを引き止めるために、村人たちは両親からあかずきんを奪った。そして、おそらくは――― 娘を盾に取られて、両親は―――
 音を立てて、地面に涙が落ちた。闇の中なのにくっきりとそれが見えた。今では不思議にも思わなかった。

 わたしは人間じゃないんだ。
 たぶん、お母さんも人間じゃなかった。
 だから、お母さんは、殺されたんだ。

 井戸の中に骨がある、と村人たちは言っていた。その骨、とはおそらく母の骨だろう。母親は殺されて、井戸の中に投げ込まれた。何のために?
 『血と骨』のために。
 ……あのひとたちは、わたしが『血』だと言っていた。では、井戸の中のお母さんが、『骨』なのだろう。
 なんのための『血』と『骨』なのだろう? 
 それは、この村を守るためのものだ。
 村を守るために、わたしと、わたしのお母さんとお父さんは、犠牲にされたんだ。
 村のため?
 一度だってわたしを愛してくれたことのなかった人たち…… お母さんとお父さんを追放し、殺そうとした、村の人たちのために?
 あかずきんは、己のなかで激しく打っていた鼓動と熱が、ゆっくりと冷えていくのを感じた。こころが冷えていく。
 あかずきんは己の手を見た。今では薄紅色の爪が生えそろい、傷ひとつ残されてはいない。あかずきんは確かめるようにゆっくりとその指を折っていく。……こぶしを硬く握り締める。

「みんな、ゆるさない」

 あかずきんはゆるゆると顔を上げた。そのまだ幼い面差しの中で――― 瞳の色は、すでに、おだやかな金茶色ではない。
 その瞳は、昇り初めた満月さながらの、隈無き黄金。
 ……熔けた黄金のように、ぎらぎらと、強く光っていた。






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