26
まどろみの夢の中で、今ではいない、最初の妻のことを思い出していた。
暗い茶色のつややかな髪。澄んだ湖水の碧の瞳。あのころ、妻はまだ愛らしい娘だった。野良仕事に日焼けして、頬に金色のそばかすを浮かせた、まだ、16歳の少女だった。
暗い顔をして、教会の片隅に祈っていた姿を覚えている。彼女は係累を頼ってこの村へとやってきていた。村にやってきていたのは彼女一人だけだった。両親も、兄弟も、今は――― この世にない。
かつては弾けるように笑う、愛らしい娘だった。それが今では唇に微笑が浮かぶことすらない。両親と家族を殺されて、故郷を追われた記憶が、彼女から微笑を奪っていたのだ。それが彼にはひどくつらかった。それでも堪えて、作り笑いを浮かべる様が、どうしても哀しかった。
泣かないでくれ、リーザ。
おまえのふるさとを取り戻すことはもうできないけれど、この村をきっともうひとつのふるさとにしてあげるから。
リーザ……
「……お義父さま?」
テーブルにまどろんでいた村長は、その声に、目を覚ました。
眼を上げると、そこには、赤毛に白いエプロンをかけた娘がいる。嫁のヤンネだ。心配げに手にしているのは肩掛けだった。おそらく、居眠りをしていた自分の肩に、肩掛けをかけてくれようとしていたのだろう。
「ああ、ヤンネ…… すまん。少々居眠りをしてしまっていたようだ」
「お風邪を召されますわ」
「いや、大丈夫」
答えながら起き上がると、関節がひどく痛み、うめき声を上げるはめになった。それでも何とかこらえきり、立ち上がる。村では唯一のガラス窓がはまった窓の向こうでは、そろそろ夕空が金色にくれていこうとしていた。
「お義父さま、晩御飯はおうちで召し上がりますの?」
「いや、今日も教会で炊き出しさ。いつ狼どもが攻めてくるか分からんからな」
だが、実際にはそんなことはありえない、と村長には分かっていた。彼らはその手に『血』も『骨』も取り戻した。これで契約が再び発効する。森に属するものたちは、村人たちに危害を加えることができなくなったはずだ。
ヤンネはそんな舅を心配そうに見た。疲れが眼の下に濃い隈をつくり、睡眠が足りていないのは一目で分かった。それ以上に、もしかしたら、ここしばらくのあいだ、彼は満足に食事も取っていないのではないか。
ヤンネはとがめるような声を出しかけて…… 黙った。変わりに微笑むと、肩掛けを舅の肩にかける。
「山羊の乳に、しょうがと蜂蜜をいれましょう」
そばかすの散った頬にやさしい笑みを浮かべ、ヤンネは舅に語りかける。
「焼き菓子もありますわ。胡桃を入れて焼いたお菓子です。それくらいだったら召しあがっても差障りは無いでしょう? どうですから、召し上がっていかれてはいかがですか」
疲れた舅に、少しでも甘いものを口にさせてあげたいという心遣い。それが心にしみた。
「ああ、そうだな。おねがいしようか」
素直に答えると、ヤンネはにこりと笑った。羊毛のスカートを翻して台所へと行く。
ミルクパンで乳が温められ、しょうがと蜂蜜が入れられるにおい。今朝焼いたばかりの胡桃の入ったケーキのにおい。あまりのあたたかさに、ふいに、涙が出そうになった。なあリーザ、と村長は心の中で呼びかける。
お前にとって、この村はどんな場所だったんだろう。お前のふるさとに勝るとも劣らぬほどの場所にはなれただろうか? 狼が羊一匹すらも襲うことの無い平和な村。それこそが、リーザの望んだものだったから。
「ヤンネ、知っているかい」
村長は、給仕をしている嫁の背中に、独り言のようにつぶやいた。
「ドロウの村が、どんな村だったか」
ヤンネは肩越しに振り返り、小首をかしげた。やや怪訝な表情。
「いいえ…… 存じませんが」
「今では森に飲まれてしまっているからな。狼どもの巣になっている。だがね、あそこは何十年か前には、ちいさくても立派に人の暮らせる村だったのだよ」
ドロウの村跡。
今では、人が足を踏み入れることすらまれな場所だ。
村の家々は崩れ去り、木々が野放図に枝を伸ばし、狼や梟の鳴き声のみが響く場所。だが、そんなドロウにも、人間たちが暮らし、平和な暮らしがあった時代があったのだ。
村長の最初の妻であるリーザは、ドロウの村の出身だった。
ドロウの村で育てた亜麻を紡ぎ、紡いだ糸を織り上げて、リネンの布をこの村にまで収めに来る織子の一人だった。村長は当時は狩人のような暮らしをしていたから、そんななかで、森を通ってドロウの村までリーザを送るということが多かった。そのおかげで彼女と親しくなり、とうとう、リーザはこの村に嫁いでくるということにまでなったのだ。
そして、それから数年後のことだった。
ドロウの村が、壊滅したのは。
知らせを聞いた村人たちが、それでも、ドロウに足を踏み入れたのは、事件が起こってから一月もたってからのことだった。事件の原因が分からぬ以上は危険だったからだ。けれど村人たちはドロウの村ですさまじい惨劇の跡を見た。
崩れ去った家々。焼け爛れた家もあった。そして、無数に転がった、村人たちの腐った死骸。
おぼろげに分かったことは、村はおそらく、森の住人たちの怒りをかったのだろう、ということだった。
狼たちに食いちぎられたと分かる死体があった。ばらばらになった手足が村のそこかしこに散乱し、白骨化した死体がいくつも転がっていた。村長はまだ覚えている。水溜りに落ちていた少女人形を拾い上げたときの、あの、胸をえぐるような切なさと怒りを。
他の村に嫁いだリーザ一人は無事だったが、リーザの家族は、一人残らず狼に食われてしまっていた。
そのことを知ったリーザがどれほど悲しんだことか。愛してくれた父と母。いとしい弟妹たち。そして、兄弟同然に育ってきた村の娘たちや若者たちまでが、命を失ってしまったのだ。
―――どうして私だけが生き残ったのでしょう―――
力ないそのつぶやきに答えることすらできず、村長はただ、妻を抱きしめるしかなかった。
あんな悲劇は、もう、たくさんだ。
うつむき、こめかみを手で押さえた村長の前に、そっと、素焼きのマグが差し出される。しょうがと蜂蜜の甘い香り。ヤンネは心配げに顔を覗き込む。「どうしたんですか?」と問いかける。
「あ…… ああ、なんでもないよ」
村長はあわてて答え、あたためたミルクを手に取った。ひとくち、口に運ぶと、かぐわしいしょうがと蜂蜜の香りが口の中に広がる。
ヤンネ。まだ若い嫁。おそらくは当時のりーぜと変わらぬほどの。
そばかすの散り、素朴な笑顔を浮かべる嫁の顔を見上げながら、村長は思った。
村を、まもらなければいけない――― ドロウの悲劇を繰り返すわけには行かない。
たとえそのためにどのような対価を差し出すことになろうとも、村を守り続けなければいけない。
それが彼の村長としての勤めであり、同時に…… 今は亡き妻リーザのためにしてやれる、たったひとつの最後の願いでもあった。
「そういえば……」
甘いミルクを味わいながら、彼は、ふと、顔をしかめた。
「カスパールはどこへ行ったんだ?」
「そういえば、昨日から帰っていませんね」
ヤンネも小首をかしげる。あの息子。自らの若い頃に生き写しの末息子を思い出し、村長はわずかに眉を寄せた。
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