28





 村に近づいても人影はまばらだった。どうやら、狼たちを警戒して、みなで村の中心部に集まっているのだろう。どうしても世話をかかせない家畜などは最低限の面倒は見られているのだろうが、放牧場に羊の姿すらない。
 村境の糸杉を過ぎて、村の中に入る。たかい丘から見下ろすと教会の広場に人影が見えた。おそらくは、そこで、狼たちの襲撃を警戒しているか…… あるいはけが人たちの手当てや、死者の埋葬などを手がけているのか。
 村のかなたは、燃えるような夕焼けだ。
 カスパールは己の傍らを見る。そこには、片耳の裂けた狼の姿がある。おとなしく傍らにしたがっている狼の影が丘に長く伸びていた。ひきかえ、その瞳は夕日を受けて強く光っている。そこに知性のようなものを感じるのは気のせいか。気のせいではないだろうとカスパールは思った。いずれこの狼もただの野獣ではあるまい。何かの魔物の一種であることは間違いないだろう。
 もしもこの狼が村を襲ったら、とカスパールは背筋にひやりとしたものを感じる。無意識に手が剣の柄にかかった。
 だが、狼は、ちいさく鼻を鳴らして、カスパールの前を歩き出した。
 数歩歩むと振り返る。まるでついて来いと言っているよう。カスパールは観念した。狼にしたがってあるきだす。
 狼は、何かのにおいをかぎながら、村のはずれのほうへと歩いていく。
 村はずれの人工林。そこには樫の木が育ち、豚が育てられる。そしてカスパールは思い出す。そちらの方向に家はひとつしかない。薬草で薬を調合するのを生業にしている老婆の家だ。
「待て」
 木々を透かし見ると、家の前に誰かが立っている。カスパールは狼を引きとめた。
「あの家がどうかしたのか?」
 問いかけると、くうん、と狼は鼻を鳴らした。そして再び家のほうを見る。
 カスパールはふと気づいた…… 家の前の道が、ひどく踏み荒らされている。
 ほとんど人の出入りが無いはずの家だ。そこになぜ見張りがいるのだろう。カスパールは狼に近くの藪に隠れるように指示した。そして、さりげなさを装って、道へと出た。
「おおい、何をしているんだ?」
「カスパールじゃないか」
 それは、カスパールよりいくつか下の村の少年だ。カスパールを見てあわてて立ち上がる。口元から齧っていたらしい甘草の葉が落ちた。
「どうしたんだよ、カスパール? 村長たちが探してたぞ。昨晩お前が帰ってこなかったって」
「いや…… すこし用事があってね。遠くまで行っていたんだ」
 答えながら少年の背後を見ると、干した薬草がつるされた家の中から、独特の埃っぽいにおいが漂ってくる。住人はいないらしい。そして奇妙なことに気づく。棚がひとつ倒されている。
 心臓が、ちいさくコトリと跳ねた。
「お前こそ、ここで何をやってるんだ?」
「んん? 見張れ、だって」
 少年はごく退屈そうに答えた。
「見張れって、何を」
「この家の地下室に、逃げ出したヘイズの家の下働きの娘がいるらしいんだよ」
 カスパールは、あやうく、声をあげそうになった。
 彼女がここに閉じ込められているだって?
 あの少女を最後に見たのは、ドロウの村跡だ。狼狩りに気づいて悲鳴を上げ、巨大な人狼に咥えられて森の奥へと消えていった姿。
 契約の『鍵』である少女。
 少年は何も知らないらしく、退屈をまぎらせてくれる相手の登場に喜んだのか、やたらと早口でしゃべり続ける。
「なんか村に戻ってきたのはいいんだけど、また逃げ出さないように閉じ込めているらしいぜ。たぶん、あとで仕置きを受けるんだろうなあ。なんか村の大人たちがそう言ってたから」
「大人たちだって?」
「村長たちだよ」
 また逃げ出したらことだから、閉じ込めてあるんだとさ、と少年は言った。カスパールは鼓動が激しく鳴り出すのを必死でこらえた。
 この少年は何も知らない。分かっていない。少女はこの村を狼たちから守るための契約の要。だから、逃げ出さないよう、こうして閉じ込められている。
 カスパールはちらりと背後をうかがった。そこにある藪の中では、裂け耳の狼がこちらをうかがっているはずだ。彼の目的がようやく分かった。裂け耳の狼は、少女を救い出しにきたのだ。
「こんな場所で退屈だろうに、大変だな」
「そうだよ!」
 カスパールは必死で平静な口調を作った。少年はその嘘に気づかない。いかにも憤慨したような口調で続ける。
「たかが下働きひとり、逃げようがどうしようが勝手じゃないか。なのに、なんでおれが見張りなんてしないといけないんだろう」
「じゃあ、俺が代わってやろうか?」
「え?」
 カスパールは、いかにも親切そうな口調で語りかける。
「さっき見たんだけど、村の教会の広場で、大きな鍋で乳入りの粥が炊かれていたよ」
「え、なんで?」
「分からないけれど、今日も村の教会で夜明かしする人が多いからだろうな。村はずれの家の人たちは、みんな、狼を怖がって村の教会に集まってる。たぶん、鶏を絞めたり、ワインをあけたりもするんじゃないかな」
「そうかあ」
 少年はそわそわしながら、ちらりと背後をうかがった。それでも命じられた仕事が気になるのだろう。カスパールは作り笑いを浮かべた。
「俺、実は父さんと顔をあわせるのが気まずくてね」
「ええ、どうして?」
「実は神父様が隣の町に行くのを送ってきたんだ。用事があるという話だったから…… けれど、こんなときに俺が村を出るなんて非常識だろう。おそらく父は怒っているだろうと思ってね」
「なあんだ、そんなことか。だったら大丈夫だよ。カスパールがいない間も、なんにも起こらなかったんだから」
 少年は笑った。
「ねえ、だったらおれが代わりに村長や大人たちに話をしてきてあげようか」
「そうしてもらえるとありがたいな」
「うん。……だったら、その間見張りを代わってくれる?」
「ああ」
 カスパールは笑いながら言った。
「のんびりしてくるといいよ。俺はここで居眠りでもしてるさ」
「了解。じゃあ、またあとで」
 少年は薬草園の柵をひらりと乗り越えると、手を振って笑いかけた。カスパールも笑って手を振り返す。そして、少年の姿が木々の向こうに消えてから…… 藪に向かって声をかけた。
「おい、狼」
 下草が音を立てて、狼が這い出てくる。
「これでいいのか?」
 狼は、そのとおり、とでも言いたげに耳を動かした。そしてすぐに家の中に飛びこむ。倒れた棚のあたりを盛んに引っかき始めた。カスパールは棚を押し上げる。すると地下室へ続く跳ね上げ戸が現れた。カスパールは戸をあけた。
 鼻を突く、薬草の濃い臭い。そして暗闇。その暗闇の中に――― うずくまるちいさな影。
「チビちゃん?」
 カスパールが思わず呼びかけると、影はのろのろと顔を上げた。白い痩せた顔。そして、ざんばらに切られた黒い髪。
「チビちゃん!」
 カスパールは思わず地下室に飛び込んだ。少女はわけがわからないといった顔で眼を見開いていた。カスパールを見、そして、裂け耳の狼を見る。
「カスパールさん? 『裂け耳』?」
 どうしてここに、と言いたげな様子。カスパールは、「あいつが案内してくれたんだ」と裂け耳の狼を示す。
「どうやらあいつは君を探していたらしい」
 少女は呆然とカスパールを見上げ…… そして、ふいに、われに返ったように叫んだ。
「そうだ、薬を!!」
「薬?」
 跳ね上げ戸からの光で、やや明るくなった地下室で、少女は盛んに壁の瓶を手に取った。さまざまな薬草のチンキや軟膏。「どうしたんだ?」とカスパールは面食らう。少女は泣き出しそうに顔をゆがめた。
「おばあちゃんが……」
「おばあちゃん?」
「怪我をして死にそうなの。傷口が開いて血が止まらないの。だから、わたし、薬を貰いにきて……」
 そもそも少女に祖母などいたのか。カスパールは混乱する。彼女は夜髪とヴォルフに死なれてから、天涯孤独ではなかったのか。
「村に…… 帰ってきたんじゃないのか」
「違う」
 少女はきっぱりと言い切った。その断言の奇妙な強さにカスパールは戸惑う。
「ここはわたしの家じゃないの。わたしはおばあちゃんと、ほんとうの家に帰るの」
 おばあちゃん、という言葉に、カスパールは反射的に、あの人狼を思い出した。
 立ち上がった影のような巨躯。燃える黄金の瞳。たしかに一太刀浴びせかけた。森の魔物は銀に弱い。うまくすればしとめることもできていたかもしれないが…… 
 なぜ、少女の祖母ときいて、人狼を連想したのか。カスパールは困惑した。けれど。
「よくわからないが…… 君は村を捨てるつもりなのか?」
「……」
 少女はうつむいた。カスパールはふいにその眼が混じりけのない黄金の色をしていることに気づく。意外に思う。こんな色の眼の少女だったろうか?
「わたし、最初から、とじこめられていただけだったの」
 少女はちいさくそうつぶやくと、瓶を拾い始める。ラベルが読めないのだろう。でたらめに拾い集めている薬には傷薬すらもない。カスパールはしばらく迷い…… けれど、傍らから手を出した。
「こっちじゃない」
 そして、頭痛の薬を手から取り上げて、代わりに傷薬を渡してやる。
「こっちのほうがいい」
「カスパールさん……」
 少女はカスパールを見上げた。カスパールは少しだけ寂しく笑った。
「君が居場所を見つけたんだったら、そこに帰るほうがいい。それがいちばんだよ」
 きっとご両親もそれを望んでいるよ、と付け加えると、少女は泣き出しそうな顔になった。けれど涙はこぼさなかった。代わりにうつむきつぶやいた。
「ありがとう。……わたし、カスパールさんがすき」
「俺もだよ。かわいいチビちゃん」
 カスパールは少女の頭をなでた。茜色の頭巾はだれが縫ってやったものなのだろう。いままでかぶり続けていた襤褸とは違う、心のこもった代物だった。
「あの、チビちゃんじゃなくて…… あかずきんです」
 少女はうつむき加減にぽそぽそと言った。「え?」とカスパールは聞きなおす。
 恥ずかしそうな顔をして、少女は言った。
「わたしの名前は、『あかずきん』になったんです」
 カスパールは眼を瞬く。君の名前は、と言いかけた。そしてすぐに止めた。思い出したのだ。森のものたちは、ほんとうの名前を名乗ることを好まないのだと。
「そうか。じゃ、行こう、あかずきん」
 カスパールは笑い、手を差し出す。あかずきんの手をとった。
 『鍵』なんて、きっと何かの間違いだ、とカスパールは思った。
 彼女がいなくなれば、村は困ることになるかもしれない。また誰かが狼に殺されるかもしれない。そんな考えが頭をよぎるのを追い払った。この少女はただの無力な子供にすぎない。そんな子供を閉じ込め、何もかもを奪い去り、それで村を守ったつもりになる。……そんなものは間違っているのだ。
「森まで送るよ」
「いいの?」
「ああ」
 カスパールは背負っていた背嚢のなかに薬の瓶や小壺を入れる。そして背負いなおし、地下室を出る。はしごの上から少女に手を差し出した。
 少女は信じられないものを見るようにカスパールを見た。そしておずおずと手を伸ばした。ちいさなその手で、カスパールの手を取ろうとして―――

 その瞬間だった。

 なんの前触れもなく、木々から、いっせいに鳥が飛び立った。
「な……!?」
 開け放たれたままの扉から聞こえる鳥たちのけたたましい鳴き声。それに無数の馬や牛、山羊の恐怖のいななきが重なった。時ならぬ騒ぎ。カスパールに引き上げられた少女が扉の外を見ると、深紅に染まった夕焼けの空に、シルエットとなった鳥が乱舞しているのが見えた。
 汚れた包帯に血がにじんでいるかのような夕暮れ。金と闇、茜と紅が混ざり合う。その空を背景に無数の鳥が舞う。その光景の不吉さに、二人はひととき声を失った。
「何事だ?」
 そう、つぶやいたときだった。

 オオオオ…… オン。

 遠く、遠く、かすかな遠吠えが聞こえた。
 遠吠えが重なった。狼たちが鳴いている。何かを警戒するような声だった。何がおこったのだ? カスパールは困惑する。森の様子がおかしい。何かが起こったのだ。
 裂け耳の狼が、驚いたように顔を上げる。カスパールは振り返る。少女もまた棒立ちになっていた。信じられないものを見たかのように眼が見開かれていた。そしてカスパールは聞いた。少女のつぶやきを。

「おばあちゃん……?」
 





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