28
その牧童は、羊に草を食わせるために、村の近くの放牧場へと来ていた。
羊たちの白い毛皮が、夕日に赤く染まっている。そろそろ帰らなければならないだろう、と彼は思う。足元では忠実な犬が主の指令を待っていた。
なにしろ、ここ数日ばかり、村の雰囲気はひどくおかしい。
狼狩りに出かけた男たちが死人を出して帰ってきて、そして、村のまわりのあちこちで狼を見るようになった。この村には昔から狼なんて現れなかったのに。すくなくとも、まだ15歳の彼が生まれたときから、ずっと。
数日間、羊たちには干草を食わせて我慢をさせていた。けれど、干草の備蓄には限界があったし、外につれてこなければにっちもさっちも行かない状態だったのだ。だから彼は母親の制止を振り切って、この放牧場までやってきた。
羊たちはそろそろ食事を終えただろうか。暗くなる前に帰らなければいけない。狼などに会ってしまったら命は無い――― そんな警告すら、彼にはまったく現実感を感じられないものだったけれど。
彼はウサギの骨の笛を咥えた。笛を吹いて犬に命じ、羊たちを連れ帰るのだ。
……だがそのとき、彼は、『異常』なものを見た。
牧草地を横切って、影が進んでいく。
それは影、牛ほどの大きさもある影だった。立ち上がり立体化した影。それが、音も立てずに、牧草地を横切り、村のほうへと歩いていく。
少年の足元で、犬が唸った。だが、尻尾は股の間に巻き込まれていた。あきらかに怯えていた。声も出ないほどに。
「な……っ!?」
あれはなんなのだ? 少年には、それが、分からなかった。
地面を掃くほどに長い尾。太い強靭な四肢。長い鼻面。
その顔に傷跡があった。片方の目がつぶれていた。残った片方の眼は、熾火のようにらんらんと光っていた。そして少年は、その『影』の声を聞いた。
カエセ
カエセ
カエセ
羊たちが怯え、次々とうずくまっていく。少年は腰から力が抜けるのを感じた。しゃがみこみ、愛犬にしがみつく。そして、呆然と『影』の行方を見送った。
影は振り向きもせずに進み、牧草地を過ぎた。その眼前には村がある。少年の故郷である村が。
カエセ
カエセ
カエセ
『影』は進んだ。たったひとつの匂いを追って。いとしい孫のにおいを探して。
片方の目からは血と膿が滴り落ち、点々と地面に跡を残した。体が衰弱し、輪郭がぼやけていた。いまや彼女は闇の獣というよりもぼやけた影といったほうが正しいだろう。けれど、差し込む夕日すらも吸い取って漆黒の体を引きずり、彼女は村を目指した。
あそこにいる。いとしい、たったひとりの孫娘が。人間たちにとらえられている。助けなければ。助けなければ。さもないと……
殺される。
彼女の娘のように。
彼女は咆哮した。その声は木々を震わせ、夕空にいっせいに鳥が飛び立った。
************
「な、なんだ!?」
教会の前の広場に、衝撃が走った。
遠く、空気を震わせるような遠吠えが聞こえた。馬がいななき、鳥たちが鳴き騒ぐ。何かが近づいている。とてつもなく不吉な『何か』が―――
男たちは腰を浮かせ、女たちは不安に眼を見開いた。子供が泣き出した。皆が一度に予感したのだ。何か、おそろしいものが近づいていると。
「狼狽するな!」
だが、不安と混乱に支配されそうになった場を、鋭い叫びが一時に収めた。
それは壮年の男、青灰色の目をした男だった。かつての狩人、今の村長だった。
「皆、銀の矢を持っているか? 銀のナイフはだれが持っている!」
「お、俺は持っている」
「俺も……」
男たちがそれぞれ己の武装を示した。強弓や石弓。いま、そこにある矢は、すべてが銀の鏃をつけたものだ。村長の指示だった。
人狼と戦うたった一つの方法。それは、銀の武器を用いて戦うことだ。
「女子供は隠れろ。人狼がくる」
ざわり、と人々の間に戦慄が走った。
「人狼だって?」
「まさか、おとぎ話でしょう?」
誰かが笑おうとして、誰かにとがめられた。皆が不安に巻かれていた。男たちすら狼狽の目で村長を見た。彼一人が冷静だった。
「安心しろ。ただの狼は、この村の人間を傷つけまい」
彼は言う。皆に言い聞かせるように。
「近づいてくるのは人狼が一頭だけだ。それも、老いぼれの、手負いの人狼だ。十分に勝てる。皆油断するな! 近づいたら矢を射掛けてやれ!」
彼はぐるりと人々を見回した。混乱は収まりつつあった。安堵する。パニックに陥った群集ほどもろいものは無い。
女たちが互いに言い聞かせて教会の中へと入り込んでいく。男たちはそれぞれにあわてて弓や剣を取った。村長もまた、腰につるした剣を確かめる。もう、10年も使ったことの無い剣だったが。
そう、10年前、一頭の雌の人狼を殺してから、一度も。
村長はおおきく息を吸い込み、また吐き出した。そうだ。人狼など、契約さえあれば恐れるに足りない。10年前と同じだ。ただのけだもののように屠ってやればいいだけだ。
「行くぞ!」
叫ぶと、それに、男たちの声が、ばらばらに続いた。
『影』は、石の橋の上で立ち止まった。空気の中の匂いを嗅ぐ。
近くに孫娘がいる。それに、娘の匂いもした。だがそれは骨のにおい、朽ちて腐りかけた骨の匂いだ。
コロサレタ
アノコ ハ コロサレタノダ
悲しみに彼女は再び吼えた。その瞬間だった。
ひゅん、と一本の矢が空気を凪いだ。
矢は彼女には突き刺さらず、橋の欄干に突き刺さった。彼女は見た。眼前に、人間たちが集まっている。
人間たちは恐怖に顔を引きつらせながら、それでも、手に手に武器を持っていた。弓や石弓。それに銀の鍍金のナイフ。
人間たちの中でも壮年のひとりが前へと歩み出た。青灰色の瞳。その眼にたしかに憎しみの色を見た。男は腕を振り上げた。絶叫した。
「射よ!」
次の瞬間、無数の矢が放たれた。
彼女は宙へと飛び上がっていた。だが、無い片目が感覚を狂わせた。
「ギャン!」
数本の矢が体に突き刺さった。燃え盛る石炭を体に打ち込まれたようなすさまじい痛み。彼女は怒りに牙をむいた。走り出した。一瞬で橋を過ぎる。ひとりの男が悲鳴を上げて弓矢を放り出した。
「うわぁぁ!!」
前足の一薙ぎで吹き飛ばす。吹っ飛んでいった男は近くの建物の壁にぶつかって動かなくなった。だが、そこまでが彼女の抵抗の最後だった。
男たちは驚愕し、怯えの目で彼女を見た。だが、青灰色の眼だけは揺るがない。青灰色の眼は、身を低くして唸る彼女をじっと見つめる。
「戦えまい」
男は低く言った。
「戦えまい…… こちらには契約があるのだからな!」
そして男は何かを高く手にかざした。それは――― ちいさな頭蓋骨。
歯をすべて抜かれ、白く磨きぬかれた、小柄な女の頭蓋骨。
「見覚えがあるだろう、人狼よ。これは貴様の同属のものだ」
同属…… 己の娘。
影は吼えた。すさまじい咆哮に耳を射られ、何人かが耳を抑えた。だが、それだけだった。影は吼えるだけで何も出来なかった。片方だけ残された眼から、涙がぼろぼろと流れ出した。
いとしい、いとしい娘。その骨。
己の愛のために、己の一族を売った、おろかで哀しい娘の骨。
「人狼を殺すのはたやすくはなかったぞ、人狼よ」
男は一歩前へと踏み出す。狼は一歩後ずさった。哀しげに咆哮した。
「鉄の武器では切っても突いても死なない。穴だらけになるまで切り刻んでも死ななかった。だから、我々はもうひとつの方法を使った。銀を使う以外に人狼を殺すもうひとつの方法だ。知っているか?」
男は笑った――― 狂気のように。
「腹を割き、はらわたのかわりに石を詰めて縫い、井戸の中に突き落とすのだ」
影の、片方だけ残された目が、裂けんばかりに見開かれた。
吼えた。影は吼えた。影の狼は絶叫した。それは、己の娘を奪われた母親の、臓腑をえぐられるような悲しみの叫びだった。
「射よ!」
ふたたび村長が命じた。その瞬間、音を立てて、狼の体に、石弓の矢が突き刺さった。
それはブルーノだった。絶叫しながら弓をつがえる。石弓を引く。至近距離では鉄の板をも貫通する石弓だ。ほかの男たちも遅れながら弓を引き始めた。銀の矢を番え、影を狙う。銀の矢は雨のように降り注いだ。狼の体を貫いた。その体を、その腹を、その腿を。
「死ね、狼! 兄貴とドロテアの仇!!」
そして、ブルーノがさらに放った矢が、残された片目を貫いた。
オオオオン、と狼は絶叫した。
針ねずみのように全身に矢をつきたてたまま、力尽きて崩れ落ちる。その体がぼやけ霞む。影が消えていく。影がなくなり、最後に現れたのは…… 小柄な老婆の姿だった。
「う、うう、ううう……」
老婆はうめいた。片目は刀傷にえぐられ、もう片方の目を弓矢が貫いていた。だが、それでも老婆は死んでいなかった。血の跡を引きずりながら、ずるずると這っていく。その先は男たちの群れの向こう。そこに呆然と立ち尽くしてたのは――― ひとりの少女。
村長は驚いた。いったいいつの間に現れたのだろう? それは――― 地下室に監禁していたはずの娘だった。
傍らには灰色の狼の姿。そして、己が息子。青灰色の瞳のカスパール。
カスパールは驚愕の眼でそのさまを見ていた。狼が哀しげに唸った。
少女は、むしろ、何が起こっているのかを理解できない、というような顔で、老婆を見下ろしていた。
黄金の瞳。ざんばらに切られた黒髪。そして、茜色の頭巾。
「あか、ずきん」
老婆は手を伸ばす。手は震えていた。その手を――― ブーツの足が、踏みにじった。
「人狼め」
それは、村長だった。青灰色の眼。
「腹を裂いて石を詰めてやろう。そして井戸に沈めてやる」
「父さん!」
悲鳴のような声とともに、村長を誰かが突き飛ばした。老婆の手を踏みにじっていた足がバランスを崩し、村長は地面に倒れた。それは、カスパールだった。青灰色の眼を大きく見開いて、信じられないものでも見るように、己の父親を見つめていた。
その瞬間、悲鳴が上がった。
「おばあちゃん!!」
少女は、あかずきんは、老婆に駆け寄ろうとする。だが、「やめろ!」と誰かが叫んだ。誰かが少女の腰を捕らえ、誰かが足をすくった。髪をつかんで引くものがいる。腕をつかむものがいる。誰かが裂け耳の狼に矢を向けた。狼は瞬間ためらい…… 哀しげな唸り声を上げて、跳びずさった。二度、三度と矢を射掛けられて、唸りながらじりじりと後ずさっていく。
「いやあああ!! おばあちゃん! おばあちゃん!」
「その娘を逃がすな! その娘も人狼だ!」
地面に座り込んだまま村長が怒鳴る。村人たちは必死でもがき騒ぐあかずきんを押さえつけようとする。服が裂け茜色のずきんが脱げた。ざんばらに刈られた髪を誰かがつかみ、ぐいと顔を仰向かせた。それはブルーノだった。その眼は復讐の暗い喜びにぎらぎらと光っていた。
「そうか、お前も人狼だったのか」
ブルーノは哂う…… その手が服を引き裂いた。まだ幼い胸乳があらわになった。あかずきんは絶叫した。
「あかずきん!」
殺到する村人たちに押し倒され押さえ込まれるあかずきんに、カスパールが絶叫した。だが、その体を誰かが羽交い絞めにした。カスパールは怒りに燃える眼で父親を見た。吼えるように叫んだ。
「なんてことを…… なんて、ことを……!」
村人たちはまるで血に酔って狂ったようだ。老婆が銀のナイフで腹を割かれる。はらわたが引きずり出される。まだおさないあかずきんが服をずたずたに引き裂かれ、陵辱されようとしている。その悲鳴。その絶叫。血まみれの何本もの手、手、手。
立ち上がった村長は、狂ったようにもがき、叫ぶ息子を見た。その眼は奇妙に冷静だった。声もまた静かだった。
「仕方ないんだ、カスパール」
カスパールは呆然と瞳を見開いた――― 己と同じ澄んだ青灰色の瞳。それが己を見つめている。
「人狼は化け物なんだ。……殺さんといかんのだよ」
「ああああああああああ!!!」
カスパールは、血を吐くように絶叫した。その絶望。その怒り。その悲しみ。
あかずきんもまた、その声を、聞いていた。
あかずきんもまた、その声を、聞いていた。
男たちの手が、服を引き裂き、肌を這い回る。血まみれの手もある。労働に疲れて肉刺だらけの手もある。けれど、あかずきんの意識は、どこか深いところでしずかにすべてを見つめていた。
おばあちゃん、ころされちゃった。
どうして?
あかずきんは見た。無数の矢に突き刺され、もはや原型すらもとどめない体からはらわたを引きずり出し、血まみれの顔で笑う男たちを。そこに石を詰め込む男。はらわたを掴んでおどけてみせる男を。
あかずきんは悟った。こうして母も殺されたのだ。
契約に縛られて抵抗することすらも出来ず、陵辱され、腹を裂かれ、はらわたを引きずり出され、石を詰められて。そうして井戸の底に突き落とされて。
冷たい井戸の底を思い出す。一筋の光も差し込まない冷たい闇、骨をも凍らせるほどの冷たい水を。
わたしたちの墓場は井戸の底。冷たい暗い水の中。そこで腐って骨になる。化け物退治のそれが顛末。
おばあちゃん、ころされちゃった。
どうして?
人狼だったから。
化け物だったから。
にくしみにのまれないでと母が泣く。記憶のどこかで泣いている。
狼に飲まれないでと母が泣く。
そうしてあかずきんはついに悟った。
にくしみこそが――― 狼なのだと。
けたたましく笑いながら、幼い少女の体をまさぐっていた一人の男が、ふいに、己の手が闇に飲まれたということに気づいた。
おどろき、見下ろす。さきほどまでそこにあったものは、すでにぼろきれしか纏わない、少女の白い裸身だったはずだ。
だが、今そこにあるものは闇。なんの前触れもなく唐突に生じた闇が――― 男の手を呑んだ。
ごりっ、と音がした。
「ぎゃああああ!!」
すさまじい絶叫に、死に物狂いで暴れていたカスパールは、一瞬、その抵抗を止めた。そして見た。地面から闇が『起ちあがる』のを。
ひとりの男が、絶叫しながらあかずきんから飛びのく。その手からは噴水のように血が噴出していた。腕には手が無かった。手首から先が無かった。
男たちが飛びのくと、ゆらり、とあかずきんは立ち上がった。
少女が立ち上がった。
服は引き裂かれ、襤褸のようになった服の間から、おさない乳房が覗いていた。かぼそい手足。ざんばらに切られ、乱れた黒髪。その間で瞳だけが光っていた。隈無き満月のような黄金の瞳。
その少女の周りに、闇がゆっくりと身を起こす。眠っていた獣が身を起こすように。
そして、闇はいとおしむように少女の体を包み込み…… ゆっくりと形を変える。
長い尾と、白い牙と、しなやかな四肢を持つ形に。
少女は吼えた――― 狼は、吼えた。
それは、人狼。
「じ、人狼……」
ゆっくりとしなやかに足を踏み出す、闇そのものが化身した生き物。それは若く美しい人狼だった。狼はゆっくりとうねらせるようにして体を伸ばした。そして吼えた。硬く張りつめた声は、溶け崩れていく深紅の夕陽を震わせるかのようだった。
そう、それは美しかった。
長く影を伸ばす、黄金と紅の光に照らされて、この上も無いほど美しかった。
「人狼の子は、人狼ということか」
呆然とたちすくむカスパールの傍らで、父が、村長が震える声でつぶやいた。けれど彼は手を伸ばす。白く磨かれた頭蓋骨を差し出す。
「だが、そいつは契約に縛られているはずだ!」
その言葉に背を押されたように、男の一人があわてて弓を取った。矢が風を切った。だが、銀の鏃を持ったはずの矢を、若い人狼はたやすく避けた。
跳躍。
体重を持たないかのような動きで舞い上がり、舞い降りる。そして。
大きく開いた顎の真紅が、ひらめいた。
ごきり。
ひとりの男が、卵を砕くようにたやすく、頭蓋を噛み砕かれた。
「なっ……!?」
狼は前足を振り上げる。鋭い爪。なにげなく横に薙いだ。ひとりの男が胴を両断された。血と臓物が、水をぶちまけるように、地面にぶちまけられた。
ぐしゃり、と音を立てて、殺された男たちが地面に崩れ落ちる。それは一瞬のことだった。ほんの一瞬にして、二人の男が殺された。
狼は炎のように赤い舌で、脳髄のついた鼻面を舐めた。それが皮切りだった。誰かが絶叫した。
「うわああああ!!」
男たちは、それぞればらばらに武器を投げ出し、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。村長は狼狽して男たちを見回した。だが、一瞬にして皆がいなくなる。村長は叫んだ。
「な、何事だ! 契約はまだ生きているはずだ! 『骨』も『血』もまだここに……っ!!」
だが、次の瞬間、村長はカスパールに突き飛ばされた。その次の瞬間、彼がいたはずの空間を爪が薙いだ。
「逃げるんだ、父さん!」
半ば体でかばうようにして父を押し倒したカスパールは、すかさず立ち上がった。父の手をとり、走り出す。その手から頭蓋骨がこぼれた。地面に音を立てた。
「『骨』が!」
「ほうっておくんだ!」
カスパールは父を引きずるようにして走り出す。その背後で若い人狼は落ちた頭蓋骨に鼻を寄せていた。まもなく、角を曲がり、その姿も、血の惨劇も、視界から消えた。
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