29
「どういうことなんだ、契約はたしかに……!」
走りながらも村長は、父は、叫び続けていた。だがカスパールには分かっていた。あの契約には決定的な弱点がある。それは、『森に属するものは汝らを傷つけまじ』という一節だ。
あかずきんは、少女は、森に属するものではない。
たしかに人狼の血を受けて生まれ、育ってきたかもしれないが、彼女の体には紛れもなくヴォルフの血、人間の血が流れている。しかも彼女は人間の食べるものをたべ、人間の住処で眠りながら育ってきたのだ。彼女は『森に属するもの』ではない。したがって彼女の前だと契約などなんの意味も持たない。
息を切らし駆けてきたカスパールは、教会の前の広場へと駆け込んだ。そして、まだそこに残っていた女性や子供たちにむかって叫んだ。
「人狼が来た! 皆、逃げるんだ!」
だが、村人たちの反応ははっきりとしないものだった。
「え……? なんだって?」
「でも、狼は村に入れないはずなんでしょう?」
カスパールは苛立ち、絶叫した。
「契約なんて意味が無いんだ! このままだと殺される! みんなどこかへ隠れるんだ!」
「どういうことなの、カスパール?」
広場で炊事の手伝いをしていたヤンネが、困惑の表情で近づいてくる。カスパールのそばで魂を失ったかのように立ち尽くす義父を見、格闘の末服も髪も乱れきっているカスパールを見た。
カスパールは、ヤンネの両肩に手を置いた。そして、ちいさな子供に言い聞かせるような口調で、言い聞かせる。
「人狼が、村に現れたんだ。彼女は怒りと憎しみにかられている。みつかったら、誰彼かまわず餌食にされる」
そして、カスパールは、父をヤンネに預けると、己は腰の剣を抜いた。
銀の剣は、夕陽の最後の名残を受けて、燃え盛るルビーのようにきらめいた。太陽はすでに森のかなたに沈み、わずかにいくたりかの真紅の腕を地表に伸ばすのみだ。このままではすぐに闇がやってくるだろう。そして、闇の中では、人間が人狼を相手にしても、100にひとつも勝機は無い。
勝機だと?
自分は戦わなければいけないのか…… あのあかずきんと?
銀の剣は重く、その刃はぞっとするほど冷たかった。だが、それこそが、今となっては人々を人狼から救う唯一の武器だった。
ふいに、カスパールは、己の腕を掴む手に気づく。その手は哀れなほどに震えていた。それは父だった。
「村を、守らないと」
「父さん……」
なぜあんなことをしたのだ、と絶叫したくなるのを、カスパールは必死で飲み込んだ。
目の前で抵抗の出来ない老婆を殺し、まだ幼い少女を監禁し、さらには夜髪を殺して井戸の底に投げ込んだ。その残忍極まりない行為の結果がこれだ。人狼の血に目覚めたあかずきんは、今や、復讐以外のことは何一つとして考えまい。
カスパールの眼の色から、思ったことをわずかなりとも理解したのだろう。父は頭を抱えてうずくまる。血を吐くようにつぶやいた。
「私は村を助けたかったんだ」
「……」
「だれも狼に殺されることの無い、平和な、森におびやかされない暮らしを送りたかったんだ。……それのどこがいけない? 私のどこが間違っていたというのだ?」
カスパールは唇を噛み、父から眼をそらした。その腕を黙って振り解いた。
父もまた、顔をゆがめ…… 腰に手を当てる。そしてカスパールは初めて気づいた。そこに剣があるということに。
父は剣を抜いた。カスパールは驚愕に眼を見開いた。それは。
黒ずんだ、銀の剣。
長い年月に黒ずみ、短く、分厚い刃は未熟な技術で鍛造されたのだと一目で分かった。だが、それはたしかに銀だ。魔力持つ鏡銀の剣ではないが、鉄の芯に銀をまきつけて作られた銀の剣だ。
息子をみて、父は笑った。自嘲的な笑みだった。
「老いぼれだと思うだろうが、私も自分の力で村をまもりたいと思っていたのだよ」
だが、魔力を持たない銀の剣は、刃がもろく、武器してはほとんど役に立たない代物だ。かつては優秀な狩人だったとはいえ、父はもう壮年。年はすでに60近い。人狼に勝てると思っているのだろうか? ほんとうに?
「カスパール、お前はここに残って皆を守れ」
「父さん……!」
「お前にはあの娘は殺せないだろう!」
父の声に、カスパールは、殴られたような衝撃を感じた。
あかずきん。やせて小柄な、おとなしい少女。黒髪と金の瞳。
まれにしか見たことの無い、無邪気な、うれしそうな笑みが、幻のように脳裏を掠めた。
「人狼を斬れん銀剣の騎士か。私は息子の育て方を間違えたようだな」
父は笑った。自嘲の笑みだった。お義父さん、とヤンネがつぶやく。父は駆け出した。夕闇のなかにその姿が消えていく。カスパールは――― その背を見送ることしか出来なかった。
若い人狼は、不吉な影のように村の中を歩き回り、出会うもの全てをひとり残らず殺していった。
まず追い詰めたのは、祖母を殺した男たちだった。
男たちは村中に逃げ、建物のなかに入り込んだものも多かった。だが、本質は影である人狼は、銀と水以外の何者にも道をさえぎられることが無い。閉ざされたドアをこともなしに潜り抜け、建物のなかにまで入り込んだ。
ひとつの家の隅には、男たちのひとりの家族が身を寄せ合って震えていた。
それも殺した。
男たちの一人は泣きながら詫び、許しを請うた。
それも殺した。
あるいは自らを盾に立ちふさがり、家族を守るために向かってきた男もいた。
殺した。
頭蓋を噛み砕き、腹を裂き、手足を食いちぎって、殺した。
シンダ
ミンナ シンダ コロサレタ
ダカラ コロス
ミンナ コロス
太陽はゆっくりと沈んでいき、わずかな名残の赤光もかぼそい糸となって消え去っていった。あとは闇がそこに降りた。同時に月が東から昇った。赤きことは血さながら、金であることは黄金さながらの月だった。
月の光が照らし出され、人々の流した血は白々と光った。建物は影になり、人狼の後ろにも影が出来る。人狼の影は人の形をして、淡い銀色に輝いていた。本質が影である人狼の影、それは闇の逆転である光なのだ。
やがて若い人狼は、ひとつの家の前に立ち止まった。
家の傍らには大きな馬小屋が作られ、家の中からは薬草の濃い匂いが…… それにまぎれて、血と膿の匂いがかすかにしていた。
見覚えがある家だ。人狼は黄金の眼を瞬いた。
かつて、自分は、この家で暮らしていた。
「よるんじゃない、化け物!」
ふいに、金切り声が聞こえた。人狼は振り返った。
そこには、たいまつを持ち、片手に干草用のフォークを持った女が、引きつった顔で立っていた。
明々と燃えるたいまつに照らし出された顔には、まぎれもない恐怖と憎悪がべったりと張り付いていた。女はたいまつを落とした。地面の干草に火が移った。ぼう、とあたりが照らし出される。
女は両手でフォークを構えると、怒りと恐怖に爛々と燃える眼で、人狼をにらみつけた。
「―――とうとう正体を現したね、化け物」
若い人狼は答えなかった。満月の瞳でじっと女を見据える。
「いつかこうなるんじゃないかと思ってたんだ。魔女の娘は魔女だって。まさか人狼だとは思わなかったが、あんたが化け物だってことは、あたしにはずっと分かってたんだよ」
通すものか、と女は震える声で叫んだ。フォークを人狼に向ける。
「フランクを殺したのはお前だろう! ドロテアも、ヴォルフも!! あんたたちはあたしから全部を奪ってくんだ! 全部! 全部!!」
人狼はしずかに女を見据えた。ゆっくりと白い牙があらわになる。狼は低く唸った。
ワタシ ノ オカアサン オバアサン オトウサン
ミンナ コロサレタ
「当たり前なんだよ! あんたは化け物なんだ! ……化け物なんか、みんな死んじまえばいいんだっ!!」
叫ぶと、女は、そのまままっすぐにフォークを構えて突進してくる。人狼は軽々と跳躍してそれを避けた。女は勢い余ってつんのめる。そのまま地面に倒れこんだ女の手からフォークが飛んだ。人狼は女の背に舞い降りた。
開いた顎の中は、炎のように真っ赤だった。
ごきり、という音。女の眼が見開かれ、口が絶叫に開かれた。
肩を噛み砕かれても、女は死ななかった。すさまじい絶叫が響き渡った。人狼は食いちぎった腕を無造作に放り出す。血が飛沫した。
地面ではたいまつから燃え移った火がちろちろと燃えていた。人狼は女の首を後ろから齧った。音を立てて頚椎が砕けた。女の悲鳴が途切れた。
人狼は、弛緩した女の体を離した。女の体はぐたりと地面に落ちた。人狼は家を見た。中からはかすかな血と膿の臭い。
そこに誰がいるのかを、人狼は知っていた。
そのときだった。
鋭い音が、空を裂いた。
「ギャン!」
鋭く跳びのくと、矢の一本が肩を掠めた。地面に刺さった矢を見る。白い羽を持つ銀の矢。通常よりも短い、石弓の矢。
「おふくろっ!!」
悲鳴。人狼は振り返る。そこには男が立っていた。石弓を手にした若い男。その顔は蒼白で、信じられないものを見たかのように見開かれていた。駆け寄ってくる。だが、人狼から離れた場所で足を止める。そして見た。人狼の足元に転がった、片腕を食いちぎられた女の死体を。
「おふくろ、おふくろっ! ……ちくしょう、おふくろまで!」
若い男、ブルーノ。ブルーノの目から血が流れるように涙が流れた。ブルーノは腰から山刀を抜き放つ。人狼はゆっくりと体をたわめた。この距離ならば飛びかかれば一撃でしとめられる。だが。
「やめろ、ブルーノ!」
また、別の声が、それに割り入った。
人狼も、ブルーノも、それを見た。それは壮年の男だった。手には黒ずんだ剣を握っていた。走ってきたのか息が上がっている。青灰色の眼が闇に燃える。
あの男。
村長。
「その山刀は鉄だ! 人狼を傷つけられない!」
「でも、でも、おふくろが!」
「お前にはまだ妹がいるだろう!」
ブルーノは、雷に打たれたように立ちすくんだ。
「早く行け! まもってやれ! もう、彼女を守れるのはお前しかいないだろう!」
何を話しているのだろう。人狼は黙って二人の動向を見守っていた。迷いにブルーノの山刀の先がゆれた…… キッと唇を噛むと、ブルーノは、目を伏せて、全速力で背後の家に向かって走っていった。
村長はかすかに笑っているようだった。人狼に向き直る。そして、銀の剣を構えた。
「復讐は快いか、娘よ」
うるるるる、と人狼は低く唸った。体を低くかがめ、たわめたバネのように、どの瞬間でも全力で駆け出すことが出来るように。
『狼』に呑まれてしまった心は、もはやまともな思考などできようはずもない。だが、それでも頭のどこかが確実に言った。
この男こそが、敵なのだ、と。
心の声が、つぶやいた。
コロシテヤル
ミンナ コロシテヤル
村長は笑った。銀の剣を構え、まっすぐに人狼を見据える。
「誰を殺すんだ人狼。お前はみんな殺しただろうが。この村の人間、お前の同志だった人間を、何人も殺しただろうが」
貴様は化け物だ――― 村長は語気強く吐き捨てた。
「人殺しの、化け物の、人狼め。……お前は所詮、永遠に呪われた存在だ!」
言うなり、村長は、まっすぐに剣を構え、人狼へと向けて走り出した。同時に人狼も走り出す。……月の光に、ふたつの影が交錯した。
BACK NEXT
TOP