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 誰かがバイオリンを演奏し、村長の屋敷は楽しげなにぎやかさに包まれている。
 おおきなテーブルの上にはあぶり肉が重ねられ、ワインが誰の杯にも注がれ、人々は楽しげに話し合っている。部屋の片隅で、ものすごい勢いでバイオリンを弾いているのは、まだ若い村人の一人だ。娘たちはスカートをたくし上げ、男たちはそんな娘たちの腰を抱いて踊る。
 にもかかわらず、ドロテアはひどく不機嫌だった。
 肝心のカスパールが、さっきから、上の空で外ばかり眺めていた。
 青灰色の眼。少し長くなった、暗い茶色の長い髪。襟足でそんな髪を結わえた様子は、なんとなく王都風で、こんな村では見受けられないくらい垢抜けてみえる。身に着けた上着や、二重に巻きつけたベルトもそうだ。カスパールは、かつてよりもずっと素敵になった、とドロテアは思う。
 おそらくそれはドロテアだけではないのだろう。ほかの娘たちも、あぶり肉やワイン、果物や蜂蜜菓子を片手になにくれと話しかけるが、そのたびにやさしく、けれど他人行儀にあしらわれて追い払われていた。あたりまえよ、とドロテアは思う。私だって相手にされないくらいなんだ。ほかの娘たちが相手にされるはずが無い。
「ドロテア」
 ふと、傍らから話しかけられる。村長の次男の嫁、ヤンネだ。
「今日も素敵ね、ドロテア」
「そう? ありがとう」
 あたりまえよ、とドロテアは少し思う。だって、今日カスパールに会うために、とっておきのエプロンを出してきたんだから。ずいぶん前から、時間を掛けて刺繍を施してきた、糊のきいた真っ白い木綿のエプロン。
「でも、カスパールも素敵になったわね」
「そうね。なんといっても騎士様ですものね。夫も驚いていたわ。あのカスパールがずいぶんたくましくなったみたい、って」
 ヤンネは自分のことのように得意げに言う。ドロテアはひそかに鼻を鳴らした。なによ。カスパールはあんたにとってなんでもないじゃない。でも、私はカスパールの幼馴染なのよ。
「でも、カスパール、いつまで村にいるつもりなの?」
「さあ…… 分からないみたい。なんでも、この傍の村に人狼が出るっていう話を調査しにきたんですって」
 ヤンネは少し首をかしげた。
「もしもその話が本当だったら、討伐隊が組織されるかもしれないってことよ。そうしたら、この村にも王国騎士団がやってくるのかもしれないわね」
 王国騎士団。けれど、ドロテアにはあまり興味の無い話だった。思ったのは、そうなればカスパールがずっとこの村にとどまってくれるのかもしれないということだった。
 ふと、背後で誰かが呼んだ。豚の血をいれたプディングが出来上がったのだ。わっと歓声が上がった。このあたりの村だと肉はご馳走だ。人々がテーブルの傍に集まる。ちらりと見ると、けれど、カスパールは窓際でぼんやりとしたままだ。
 ドロテアは少し爪を噛んだ。そして、決意を決めると、人を掻き分けるようにして、テーブルの傍へといった。
「カスパール!」
 呼びかけられたカスパールは、振り返った。青灰色の瞳。
 片手に豚の血入りプディングを手にしたドロテアは、笑顔を浮かべて、カスパールの傍らへと並ぶ。
「ね、プディングが出来たみたい。一口どう?」
「ああ、ありがとう……」
 上の空で受け取り、フォークを手に取る。口にするしぐさも、なんとなく機械的だった。無論、ドロテアのほうを見てはいない。ドロテアは不満げに唇を尖らせる。
「ね、ずいぶん久しぶりね?」
「さっき会ったじゃないか」
「そうじゃなくって!」
 唇を尖らせるドロテアに、ようやくカスパールは振り返った。すこしこまったように首をかしげる。
「ずっと会ってなかったじゃない。カスパールが王都に行ってから…… どう? やっぱり向こうは都会でしょう。こんな田舎になんてあきれてる?」
「いや、そんなことないよ。いくら王都だって、俺たちは毎日訓練ばかりさ。遊んでる暇なんてない」
 カスパールは少し苦笑する。内気な少年のような表情は昔のままだ、とドロテアは思う。眼を細めた。
「カスパール、もう、騎士様だもんね……」
「いや。ただの見習い騎士だよ。まだ、騎士なんてもんじゃない」
「でも、すごいよ。ただの農夫や狩人とはぜんぜん違う」
 力説するドロテアに、けれど、「そうかな」とあいまいに答えただけだった。その手ごたえの無さ。ドロテアは少し不満に思う。
「ねえ」
 言って、ドロテアは、少し身を離す。
「どう? 私のスカート」
 ドロテアは、つま先でくるりとターンした。細かなプリーツのスカート、うつくしい刺繍のエプロンがひらりと舞い上がる。
 細かいプリーツのスカートに、刺繍のエプロンを合わせるのは、このあたりでは一般的な民族衣装だ。それにヘッドドレスを合わせ、未婚の女は梳った髪を背中にたらす。コインやチャームを連ねた魔よけと装飾のベルト。それに、刺繍を施した革の靴。
 ねえ、ほめてよ、とドロテアは思った。
 私、あなたのためにこんなにお洒落してきたの。ほかの人のためにはこんなお洒落なんてしないもの。まじめな話なんていいから、もっと私とお話してよ。
「ずいぶん手の込んだエプロンだね」
 カスパールは言う。ドロテアは微笑む。
「何年も前から、ずーっと、一生懸命刺繍してきたの」
 けれど、カスパールの返事は、ドロテアにとっては想像もつかないものだった。
「……あの子も、刺繍とか、してるの?」
「え?」
 あの子、とは誰だろう。一瞬、ドロテアには理解できなかった。
「君の家のあの子だよ。あのチビちゃん」
「あの子って…… もしかして、あかずきんのこと?」
 ドロテアは混乱する。なぜ、ここであかずきんの話が出るのだ。
 ドロテアの返事に、カスパールは少し悲しそうな顔をした。「そういう言い方は無いだろ」と言った。
「え…… え?」
「そんな呼び方、あんまりだ。……あの子、まだ、馬小屋に暮らしているのか?」
 あかずきん。ドロテアの家の、馬小屋の片隅に暮らしている少女。
 ドロテアは、なぜ彼女が馬小屋にいるのかを知らなかった。ドロテアが意識し始めたころには、あの子はもう馬小屋にいた。ずっと昔からそうなっているのだ。寒い冬も、暑い夏も、彼女はあそこにいる。泥と垢にまみれた汚い子ども。豚を飼い、馬の世話をするのが仕事の子ども。
「最近、ちかくの村で、人が襲われる事件が続いているんだ」
 混乱しているドロテアに、カスパールは、強い口調で言った。
「村はずれで暮らしている人間や、牧童たちが襲われる。中には家の中に住んでいたのに襲われる人すらいたんだ。ただの狼の仕業じゃないと思う。家のドアを内側から開けた痕跡のある場所もあったんだ。たぶん、人間の声を真似た人狼が、ドアを開けさせたんだと思う」
「それが、どうしたっていうのよ」
 カスパールは眉を寄せた。ドロテアはぎくりとした。まるで、非難するような眼。
「あんなところに、あの子を置いておいたら、危ないとは思わないのか?」
 そんなことを言われるなんて想像もしていなかった。何かを言おうと思っても言葉が出てこない。細かなプリーツのスカート。刺繍のエプロン。カスパールのために、こんなにお洒落をしてきたのに。
 ドロテアは、必死の思いで、言葉を搾り出した。
「だ、だって…… 馬だって豚だって無事なんだから…… それに私は知らないわ! お母さんの決めることだもの!」
「君はあの子を馬や豚と同列に扱うのか? ……でも、そうかもしれないな。君はあの家の主人じゃない」
 カスパールはため息をついた。「でも」という。手を伸ばす。
 その手が、ドロテアの飾りベルトの、ちいさな鈴に触れた。
 銀の鈴。
「―――あの子にあげたものを、どうして君が身に着けているんだい」
 カスパールの、青灰色の眼が、まっすぐにドロテアを見た。
 まぎれもなく、非難の色。
「……あんな子どもから、しかも、何も持っていない子から物を取るなんて、俺はどうかと思う」
 ドロテアは、頭のなかが、真っ白になるのを感じた。




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