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 遠く、木々や建物の壊れる音が聞こえる。カスパールはそれだけを頼りに一散に走った。腰では銀剣の飾り帯がかすかに音を立てる。嫌な予感が内側から胸をかきむしって、苦しいほどだった。
 残れ、と父は言った。
 おねがい、残って、と教会に集まった村人たちは言った。
 だが、カスパールは、わずかな迷いの後に、駆け出さねばいられなかった。焦燥と混乱に背中を押されて。
 人狼と化してしまったおさない少女――― 彼女を屠らねばならないのか? そんな迷いが、黒い雲のように胸中で渦巻いていた。
 両親を奪われ、目の前で祖母を殺されたあかずきん。彼女が人狼と化したのは誰のせいでもない、村の皆のせいだ。そうして、その平和の上に何も知らずあぐらをかいてきた、カスパール自身のせいだ。 
 だが、彼女は人を殺してしまった。
 もはやただの化け物、森に住む人狼であるあかずきん。このまま生かしておければ、村の人間は一人残らず殺されてしまうだろう。倒さなければいけない。そして、それが出来るのは、銀の剣をたずさえたカスパールのみしかいない。殺さなければ殺される。人狼と人間は所詮相容れない存在なのだろうか、とカスパールの中で疑問が反響した。
 小川にかかった橋を渡り、いくつもの家の前を駆け抜けた。そしてカスパールは足元に残る足跡に気づく。人間の手のひらほどの大きさもある巨大な足跡。……人狼の足跡。
 人狼の足跡を追って走っていく途中、カスパールは凄惨な光景をいくつも見た。食いちぎられて散乱する手足。腹を裂かれた死体。骨を砕かれて死んでいる女。
 逃げ遅れたのか、川に半ば浸かったまま息絶えている少女の姿も見た。カスパールは自らの胸が裂かれるように痛むのを感じた。なぜ彼らが死ななければならない? たとえこの村の平和が罪も無い女たちの犠牲の上になりたっていたとしても、何も知らない村人たちにまで罪は無かったはずだ。
 月明かりが白々と道を照らしていた。大きな足跡は続いていた。カスパールは全力で足跡の後を追った。
 そして。
「―――ブルーノ!?」
 よろよろと道を歩いていた人影が、はっとしたように顔を上げる。そして、カスパール、とつぶやいた。
 カスパールは、その背に乱れた髪の誰かが背負われていることに気づく。血と膿の匂いが鼻についた。ドロテアだった。
 薄く開いた意識の無い目が、ぼんやりとカスパールの姿を映していた。首は力なく垂れていた。カスパールを見つけて安堵したのか、ブルーノの膝から力が抜けた。膝から地面に座り込む。カスパールは瞬間、呆然と立ちすくんだが、すぐに駆け寄った。
「どうしたんだ、ブルーノ!?」
「……かあさんが、……それに、村長も」
 カスパールは、瞬間、冷水が浴びせかけられたかのように感じた。
「父さんが?」
「人狼が……」
 涙が地面に落ちた。ぱた、ぱた、と音が続いた。ブルーノの目から、血が流れるように涙が流れ落ちる。
「殺されたんだ。みんな。かあさんも、兄貴も、……ドロテアも」
 父が殺された。その言葉に、カスパールは意識が遠くなりかけるのを感じる。だが、すんでのところで踏みとどまった。唇をかみ締めてブルーノの肩を掴む。その背のドロテアを、横抱きに抱き上げた。暖かかった。
「落ち着け、ブルーノ。ドロテアはまだ無事だ」
 青ざめて、隈の浮いた顔。だが、ドロテアの体はまだ温かかった。胸は呼吸に上下していた。まだ死んではいない。まだ生きている。カスパールは立ち上がる。ブルーノは呆然と開いた目でカスパールを見上げた。
「教会まで送るんだ。それから―――」
 そこまで言って、カスパールは、言葉を途切れさせた。
 それから…… どうするというのだろう?
 村人たちを守らなければならない。だが、ずっと教会に隠れていれば、人狼から逃げおおせることが出来るのか。まだ村には逃げ遅れた村人たちがいるかもしれない。累々と積み重なった死骸を見たように。
 人狼を倒せるのは自分だけだ。カスパールにはそれが分かっていた。カスパールは剣士だ。銀剣の魔力を持ってしなければ、影の魔獣を倒すことなどできない。
 だが、あの人狼は、ただの獣ではないのだ。カスパールはなぜ彼女が魔獣になったのかを知っている。
 ……倒すことなど出来るのか?
 ブルーノはただカスパールを見上げていた。その目からは涙が流れ続けていた。カスパールはぐっと奥歯をかみ締めた。ドロテアを抱きなおした。たよりなく弛緩した体。
「教会に戻ろう」
 それがただの逃げだと知りながら、カスパールは、言った。
「全部、それからだ」




 
 ―――ふと、噛み裂いた死骸から顔を上げたとき、人狼は、奇妙な声を聞いた。
 はるか遠くから、何かの声が聞こえてくる。それは狼の遠吠え、だが、ただの狼の声とは違った響きを持つ声だ。幾重にも重なり合い、角笛が谷間に響くように、はるか遠くから聞こえてくる。
 その声は懐かしい。その声を人狼はたしかに知っていた。それは記憶よりもさらに奥、血の中に刻まれた声だったから。
 それは、森の言葉だ。
 呼びかけている。
 復讐を。

 奪われたのならば奪え。
 殺されたのなら殺せ。
 血には血を。涙には涙を。
 お前の悲しみ、お前の怒りに、同じものを持って報いてやれ。

 それが…… 森に住むものたちのルールだ。
 森の闇を歩むものたちは、『赦し』という言葉を知らない。彼らのルールはたった一つ、『力』だけだ。
 誰から教えられたわけでもなく、若い人狼はそれを知った。そして高らかに答えた。己が力の誇らしさを。
 自らの足元を見下ろすと、そこには、五体をずたずたに引き裂かれた死骸がある。人狼はひきずりだした臓腑を無造作に吐き捨てた。足元には不器用な細工の銀の剣が転がっている。見下ろす黄金の目に映っているのは、無念に見開かれ、天を睨んでいる目だった。壮年の男だった。臓腑を引きずり出され、体をずたずたに噛み裂かれても、まだ、生きていた。
 ごぼ、と血泡を吐く。ほとんど息も無いだろう。今では喉にかすかに息が通るのみ。人狼は、魔獣の黄金の目で男を見下ろした。そして、言葉ではない言葉で、ゆっくりと、残酷にささやいた。
 
 コロシテヤル
 コワシテヤル

 オ前ノ愛シタモノ 全部

 だが、そのとき、男はなぜか、かすかに肩を震わせた。
 笑っている。
「く…… くくく……」
 人狼はわずかに目を細くする。男を見下ろした。

 何ガオカシイ?

「所詮、お前は…… けだもの……」
 ごぼり、と血が吐き出された。
「何も愛さない…・… 心の無い…… けだものだ……」
 人狼の中で何かが動いた。それは、火のようなものだった。人狼は吼えた。そして、飛びつくようにして、男の咽に食らいついた。人狼はそのまま男の体を振り回す。首が食いちぎられ、千切れた体が建物の壁にたたきつけられた。絵の具をぶちまけたように血が壁に飛沫した。
 はき捨てた男の顔は、それでも、目を見開いて、まるで若い人狼をあざ笑っているようだった。人狼は喉の奥で唸った。なおも憎しみのこもった目で男の首をにらみつけた。大きく顎を開き、その頭蓋を噛み砕いた。それでも怒りはさめやらず、人狼は、血を吐くような声で咆哮した。そして、顎からよだれを滴らせながら、荒い息で周囲を見回す。
 臓物が、手足が、血と肉が散乱し、酸鼻を極めた有様と化していた。そこはかつて彼女の暮らしていた場所だった。だが、『家』ではない。そこを冒涜し汚したことに対しても、人狼は何一つとして感じることが無かった。心はまるで火のようで、すべては焼き尽くされ、他の何一つとしてそこに残らない。
 その傍らに、すっと、一匹の狼が寄り添った。
 裂けた片耳を持つ、灰色狼。狼はそっと人狼の顔を舐め、そこについた血を拭った。
 くうん、と鼻を鳴らす。まるで思いやるような響きがそこにあった。人狼は喉をかすかに鳴らしてそれに答えた。
 ざあ、と風が吹いた。
 木々が身をよじるように揺れて、病葉が千切れ飛んでいった。闇の空を白々と澄んだ月が照らしている。かつて人間だったものが飛び散った無残極まりない光景を明々と照らしていた。動くものは命の無いもの、そして、そこに立つ二頭の狼だけ。
 人狼は顔を上げ、風の臭いを嗅いだ。そこに感じるのは血の臭いと死の臭い。だが、まだわずかに生の臭いが残されている。
 まだ生きた人間がいる。
 怯え、嘆き、恐れに満たされた臭いが、風の中に感じられる。
 暗い風に煽られたように、人狼の中で、怒りと憎しみがざわりと揺れた。
 
 コロス
 ミンナ コロス 
 死ンデシマエ

 長い尾が地を掃き、ゆっくりと人狼は歩き出した。音ひとつ立てぬ姿は、何らかの生物のものというよりも、運命の引きずる不吉な影そのものだった。
 灰色狼は遅れて後を追っていく。気遣わしげに、尾を揺らしながら。



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