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「父が…… 死にました」
 カスパールが言うと、教会の中は、水を打ったように静まり返った。
 意識の無いドロテアは、毛布を敷いた床に寝かされていた。ほの暗いランプが影を揺らしていた。強い風にざわめく木々が、月の光にシルエットになる。
 父が死に、男たちが殺され、村の主だった男たちはほとんどが死んでしまった。神父は村を捨てていた。教会に残された男は、傷ついたもの、さもなければ幼すぎるか、年老いたものばかりだった。
 もう村を指導できるような立場のものはほとんどいない。人々の視線が、不安に青灰色の目をきらめかせるカスパールに集まった。ひとりの農婦がおずおずと聞いた。
「だったら、あたしたちは、どうしたらいいんだい」
 カスパールは答えにためらった。彼はまだ18歳の青年だった。村人すべての命は、彼が背負うには重すぎた。けれど。
 カスパールは、顔を上げた。
「朝になるのを待って、村を出ましょう」
 精一杯に努力して、穏やかな声を作る。人々をなだめるように。その不安を払うように。
「隣村に、神父様をお送りしたときに、隣村の村長に、村で起こっていることを伝えました。きっと避難を受け入れてくれる」
「村を捨てないといけないの?」
「羊や牛はどうしたらいいんだよ……」
「作物の世話は……」
 人々は口々に不安を訴えた。カスパールは叫びたくなった。分かっている。けれど、どうしようもないのだ。もう手遅れだ。何もかもを捨てなければ、命までも失ってしまう。
 けれども。
「大丈夫。まずは、無事にこの村を一度離れることです」
 カスパールは言った。精一杯、微笑を崩さないようにしながら。
「人狼の討伐隊が王国騎士団に組織されることになっています。だから、村を取り戻すことだってきっとできる。まずは…… 生きて村を離れないと」
 そのときだった。
 ふいに、遠く、かすかな声が聞こえた。
 それは遠吠え――― 狼の声。
 子供の一人が、ふいに、わっと泣き出した。それに釣られたようにあちこちから悲鳴にも似た泣き声があがる。
 泣き出したのは子供たちだけではない。女たちの幾人かがヒステリーを起こしたように泣き出す。暗い教会の闇に、色硝子越しのあえかな月光だけが闇を照らす明かりだった。ほとんど真闇に近い教会の中で、人々は精一杯に身を寄せ合いながら、無力に泣き叫ぶことしかできない。
 あまりに、無力。
「大丈夫です。きっと大丈夫ですから、落ち着いてください」
 ……おまえ一人で守れるのか? この人々を? 
 そんな声が頭の中にこだました。必死で人々をなだめようとするカスパールの内側に。
 同時に、闇がじわじわと広がるように、カスパールは悟った。父が守ろうとしていたものこそ、この弱い人々なのだということを。
 『夜髪』そしてヴォルフ、幼いあかずきん。彼らの犠牲の上に守ろうとしていたもの、それがこの人々だった。危機にさらされれば泣きながら身を縮め、牙に掛けられることを待つしかない無力な人々。森の闇はあまりに深く、人間のかざすことのできるともし火はあまりに小さい。
 銀剣を手にしたからといって、己は無力な人間に過ぎない。その事実が、貫き通すように心に刺さった。たった剣一本で何が守れる。……少女一人守れなかった自分に、いったい何が守れるというのだ?
 微笑の裏で、絶望が心を浸した。ひたひたと波のように打ち寄せてくる。飲まれそうになる。
 そのとき、誰かが、教会のドアの前に立った。
「……ブルーノ」
 それはカスパールとさほど年の変わらない青年だった。顔には涙の跡がくっきりと残っていた。その手には石弓が握られている。
 茶色い瞳には疲労の色、けれど、それを超えてなお強い決意の色があった。背に負った弓筒には白羽の矢が入っている。銀の鏃をつけた破邪の矢だ。
「どこへ行くんだ」
「人狼を狩るんだ」
「君が殺される」
「それでも」
 ブルーノは、はっきりと言った。
「行かなきゃダメだ。オレは、ドロテアを守らないと」
 声が震えていた。カスパールには、ブルーノの怯えがはっきりと分かった。目の前で兄を殺され、母を殺されたのだ。たくさんの人々が命を奪われた。人狼という生き物の恐ろしさは誰よりも分かっているはずだろう。
 それでも。
 ブルーノは笑ってみせた。青ざめた、ゆがんだ笑みだった。それでも精一杯のものだと分かる笑顔だった。
「じゃあ、ドロテアのこと、頼んだぞ」
 それだけ言うと、ブルーノは身を翻そうとする。カスパールは息を呑んだ。
「待て!」
 カスパールは、とっさに、手を伸ばしてしまった。
 その手はブルーノの手を掴んでいた。唇を硬く引き結んだ。ゆっくりと、言った。
「俺も、行こう」
 ブルーノは信じられないものを見るようにカスパールを見る。それから少しだけ笑ってみせた。冗談でも聞いたように。
「お前がか、臆病カスパール?」
「そんな言い方はないだろう」
 カスパールは一瞬だけ笑った。
「……俺は銀剣を預かった身だ」
 ブルーノは黙った。その茶色い目には疑いの色があった。ほんとうにカスパールは戦うことが出来るのか―――
 そのとき、おずおずと、背後から服を引く手がある。
 振り返る。そこにいたのは兄嫁のヤンネだった。ヤンネの目には涙があった。素朴なそばかすの頬が、手のひらでこすって赤くなっている。カスパール、と呼びかけかけて…… ヤンネは言葉を途切らせた。腕を組む。震える指で、祈りの形を切った。
「お願い、銀剣の騎士様。どうか私たちを守ってください」
 カスパールは声に詰まった。
 彼女の夫である兄は、狼狩りで重症を負っている。ここで人狼に襲われれば間違いなく命は無い。そして、それはこの教会に身を寄せているものたちならば、誰でもそのとおりなのだ。
 カスパールは気づいた。回りからの視線が、集まっている。
 女たち、子供たち、老人たち。
 守られねば生きられない、弱い人々。
 ブルーノもまた、カスパールをまっすぐに見ていた。試すように。
 カスパールは深く息を吸い、吐いた。
「大丈夫」
 青灰色の目に微笑を浮かべて、カスパールは、ヤンネの肩をそっと抱いた。
「あなた方は、きっと俺が守る」


 ―――カスパールの中で、何かが、ぱきん、と音を立てて砕けた。




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