３２
……彼らは、『あかずきん』が『人狼』であることを知らないのだと、カスパールはいまさらながらに思い当たった。
教会を出ると、強い風が横殴りに吹き付けて、ひとつに結わえたカスパールの髪をなびかせた。目に入る前髪を押さえながら見上げると、雲の千切れ飛んでいく空に、白い月が昇っている。
教会の前の丸い広場。石が敷き詰められている。祭りの日などには村人皆が集まる場所だ。今は周囲に育った木々がざわざわと梢を揺らし、千切れた木の葉が舞い降りてくる。
「暗いな……」
カスパールがつぶやくと、ブルーノが、「ああ」と答えた。石弓に矢をつがえ、ギリギリとからくりを巻き上げる。銀の矢尻が白く光っていた。腰には革の鞘がある。それはカスパールが渡した銀の鍍金のナイフだ。持っていたところでほとんど意味はあるまいが、どうしても攻撃に間の開いてしまう石弓の気休め程度にはなるだろう。
ブルーノは短く言った。
「お前、逃げないだろうな」
「まさか」
「もしも逃げようとしたら、オレはお前を撃つ」
どういう意味だとかすかに眉を寄せて、カスパールはブルーノを見た。ブルーノはカスパールに石弓を向けていた。そしてカスパールは、狂気にも似た目の中に、わずかばかりの恐れを見つける。
彼は、知っているのだ、とカスパールは思った。
あの人狼が、何者であるのかを。
なぜ憎まれるかを知っているのだ。……彼は、無辜の村人とは違う。
その事実がなぜだか安堵にも似た感情を引き起こし、カスパールは軽いめまいのようなものを覚える。けれど、それも一瞬だった。カスパールは色の無い唇に微笑を浮かべた。
「俺は、絶対に、逃げない」
……たとえ、それが自らの『死』を意味するとしても。
そのとき、遠く、狼の遠吠えが響いた。
カスパールは銀剣を抜き放った。闇に銀光がひらめいた。
「来る！」
強い風がざわざわと闇を揺らした。そして月が隠れ、また現れた。闇の向こうに二つ、黄金の火が灯った。
カスパールは剣の柄を握り締める。ブルーノは怯えたように身を引きかけるが、すぐに唇を噛んで石弓をそちらへと向けた。足音も立てずにひたひたと影が近づいてくる。それは、牛ほどの大きさもあるような、巨大な狼の形をした影だ。
地を掃かんばかりの長い尾。光を吸い取る漆黒の体。そして燃える猫目石の瞳。黄金の双眸。
―――人狼。
「あかずきん！」
カスパールは思わず呼びかけた。傍らのブルーノが、顔をゆがめるのも気にせず。
「俺だ、あかずきん！！」
だが、人狼は答えない。地を震わすような低い唸り声が聞こえてくる。太い足が、爪が、地を踏んだ。頭の中の声が響いた。
コロス
ミンナ コロス
「おふくろの…… 兄貴の仇っ！！」
絶叫とともに、空気を切る音が響いた。銀光が闇を切り裂いた。まっすぐに飛んだ矢が人狼の肩に突き刺さった。人狼がすさまじい咆哮を上げた。
それが、始まりだった。
「ためらうなっ、カスパール！」
ブルーノの絶叫に背を押されたように、カスパールは走り出した。目は裂けんばかりに見開かれていた。だが、涙は無い。今は泣くことの出来る時ではない！
ギィン、と銀が悲鳴を上げた。
「ぐっ……！！」
受け止めた人狼の爪のあまりの重さに、カスパールはそのまま背後に吹き飛ばされそうになる。だが、力を込めて足を踏みしめ、ギリギリで踏みとどまった。砕けそうに奥歯をかみ締め、そのままの力で剣を振りぬく。
弧を描いて宙を薙いだ剣筋から、風に押されるように人狼が退いた。その巨体にもかかわらず体重が無いかのように軽やかな動作だった。
今までの戦いから、カスパールは悟っていた。人狼の本質は『肉』ではない。『影』だ。
いかな巨体を誇っていようと、その体は本質的には『影』にすぎない。重さを持たず、質量を持たず、だからこそ、魔力持つ銀の武器でなければ傷つけられることが無いのだ。
しなやかに跳んだ体が、宙ですばやく反転し、遠い地面に足をついた。たわんだ体には力がみなぎっていた。次の瞬間、それが開放される。
黒い、風が吹いた。
１０数メートルの距離を詰めるのに、おそらく二秒とかかるまい。あまりの速さにカスパールは幻惑された。
横薙ぎの一撃が、意識を吹き飛ばした。
「―――！！！」
とっさに剣で受けようとしたのが精一杯だった。左から薙いだ一撃が肩を砕き、カスパールはそのまま横に吹き飛ばされる。
声すらも出せずに、石の地面にたたきつけられ、そのまま横に吹き飛んでいく。意識が一瞬断絶した。だが、その白い一瞬にも、人狼は攻撃の手を緩めなかった。
裂けんばかりに見開いた目に、舞い降りてくる黒い影が映った。
音も無いその姿は、黒い鳥が舞い降りるように、優雅だった。
「がっ……！！」
とっさに突き出した左腕が、犠牲になった。
ごりっ、という鈍い音。
雷鳴に打たれたような苦痛が、総身を貫いた。
「ぐぁ……！！！」
カスパールの左腕をやすやすと噛み砕いた人狼の目が、その息がかかるほどの近くでカスパールを見ていた。苦痛に絶叫するカスパールを見下ろす黄金の目。その目は燃える猫目石。黄金の色彩は鮮やかで、無垢なほどに純粋な憎悪だけに満たされている。なんて美しいんだ。カスパールはすさまじい苦痛の中に、そんな感情のひらめきをたしかに感じた。
うつくしい。
憎悪しか知らぬ生き物。
だが、次の瞬間、絶叫が一瞬の陶酔を引きさいた。
「どけ、化け物ぉぉっ！！」
石弓が音を立てて矢を発射する。闇を裂いた銀光が狼の背を狙う。避けようと身をねじった隙を、カスパールは見逃さなかった。
右腕を、振り上げた。
銀の刃が、たしかに肉に食い込んだ。
「―――！！」
血が降り注いだ。声にならぬ苦痛がはじけ、人狼は身を翻した。カスパールはそのまま横に転がり、立ち上がった。左腕に痛みが爆発する。
「ぐ……！！」
「大丈夫か、カスパール！？」
ブルーノが叫ぶ。駆け寄ろうとする。
「来るな！」とカスパールは絶叫した。
左前腕は完全に砕け、折れ曲がった断面から白いものが覗いていた。大丈夫どころではない。完全に左腕を砕かれた。
だが。
左腕だ、とカスパールは思う。
右腕さえあれば剣は振るえる。痛みは強いが、その苦痛が逆に頭を明瞭にする。頭の中は激しい苦痛を通低させて水のように澄み切っている。
こちらに走ってくる人狼の姿が、スローモーションのようにゆっくりと見える。
大きく開かれたあざとの燃えるような紅。白い牙。なんて美しい生き物なんだ、と感嘆する。
本来、人間が勝てるような生き物ではない。
―――それが、銀剣を授けられた、『狩人』でなければ。
カスパールは低く身を沈めた。人狼はまっすぐに走ってくる。狙いはカスパールだった。跳躍する。その黒い風のようにしなやかで美しい動き。
カスパールは、その体の下に転がり込みながら、上へ向かって剣を突き上げた。
鋭利な刃が、『影』を切り裂いた。
カスパールの一撃は、闇を切り裂いて、影の獣のわき腹を裂いた。まぶたの裏にいつまでも残されるような光の軌跡。
限界まで研ぎ澄まされた鏡銀の刃が、人狼の毛皮を引き裂く。躍動するその肢体を。その腹を。
だが、浅い。
人狼は最後の瞬間、とっさに宙で身をよじっていたのだ。人狼は身を傾げながら地面に着地した。ずしゃり、と地面が音を立てた。人狼が立てた初めての足音だった。
ぼた、ぼた、と地面に血が落ちた。真紅の花のように鮮やかな色彩が闇に咲いた。
うるるるぅ、と人狼が低く喉で呻いた。……地面にがくりと膝をついた。
「やった！」
ブルーノが歓声を上げる。カスパールは信じられないような思いでそれを見ていた。
人狼は地面にうずくまり、喉で呻きながら、二人のほうを睨んでいた。その瞳は狂おしいほどに燃え、顎は泡を咬み、舌が赤くひらめいていた。裂けた腹から血が流れ落ちる。石畳をしとど濡らしていく。
「……！！」
カスパールはとっさに人狼へと駆け寄ろうとする。踏み出す。だが、その足が、がくんと砕けた。殴られたように頭に衝撃が走った。
眼前に赤いものが侵入する。震える指で顔に触れる。血だった。人狼の爪が、カスパールの頭を浅く掠めていったのだ。脳への衝撃。そのせいか、地面がぐらぐらと激しく揺れ、立ち上がることができない。
視界が奇妙なスローモーションに見える。そんな中を、ブルーノが、悪鬼のような表情で、ゆっくりと人狼へと歩み寄っていく。
「なに、を」
ブルーノ、何を、とカスパールは呻いた。次の瞬間、人狼が、悲鳴を上げた。石弓が音を立てて黒い毛皮に振り下ろされる。
「この…… っ！」
ぎゃん、と声があげられる。ふたたび石弓がたたきつけられる。人狼は目を怒りに燃やし、牙を鳴らし、泡を噛んだ。カスパールは悲鳴のような声をあげた。
「ブルー、ノっ！」
「この、化け物っ！ 化け物っ！！」
ブルーノの背には、もう、弓は無かった。銀の矢で止めを刺そうにも手が無い。ただの武器では人狼を殺すことは出来ない。だが、痛苦を与えることくらいなら出来る。
巨大な頭を蹴り、その頭に向かって石弓を振り下ろし続ける。カスパールは叫んだ。
「やめろ、ブルーノ！」
その瞬間、ブルーノは、弾かれたように振り返った。ブルーノは息を呑んだ。
血が流れるように、涙が流れていた。
「剣を、カスパール！」
ブルーノは、吼えた。
「銀剣を。止めを刺すんだ！」
カスパールは己の手を見下ろした。それから人狼を見た。その目は黄金だった。獣の黄金の瞳が、すさまじい怒りに燃えながら、ブルーノを、カスパールを睨み付けていた。その視線に温度があったならば、とうに皆が灰と化していただろう。
内側から脳裏を引っかくように、すさまじい絶叫が響いていた。
コロス
ミンナ コロス
コロス コロス コロシテヤル！！
ブルーノは手を止め、カスパールをじっと見つめていた。その目が怒りと憎しみに燃えていた。カスパールは呆然としてその目を見た。そして、黄金の瞳のなかにあるものと、まったく同じものを見つけた。
カスパールは、己の手が銀剣を掴むのを、他人の手のように感じていた。
ゆらり、と立ち上がる。
砕かれた左腕が、心臓の鼓動と共に、焼かれていくかのように痛むのを感じた。頭も割れそうだ。気を緩めれば、全身が、バラバラになって燃え落ちてしまいそうだった。
だらりと下げた右腕に、銀剣を引きずりながら、一歩、また一歩とカスパールは歩んだ。人狼は今はまっすぐにカスパールを見ていた。だらりと吐かれた舌。唾液の泡のこびりついた口元。
隈無きことは昇り初めた満月のような黄金の瞳。うつくしい目だ。そしてそれは、寄る辺の無い少女の瞳でもあった。
カスパールは、憎しみの声のなかに、かすかな呟きを聞く。
ナンデ ワタシタチハ コロサレルノ
ドウシテ？
なぜだろう？
考えながら、カスパールは、一歩歩んだ。左腕からぼたぼたと血が滴り落ちた。
彼女たちが秩序を乱したからか？ それとも、人を殺したからか。彼女たちが恐ろしかったからか。どの答えも違う、とカスパールは思った。
どの答えも正解であり、また、誤っている。すべてはたったひとつの理由に始まる。
それは、彼女たちが、『人間』ではないという理由。
ブルーノはまっすぐにカスパールを見ていた。足元の人狼の頭に足を乗せている。人狼は荒く息を吐きだしていた。その目もカスパールを見ていた。人間と魔獣。二対の瞳が、カスパールだけを見ていた。
カスパールは顔をゆがめた。腕が痛い。たまらなく痛い。砕けた腕を切り落としてしまいたい。いっそ右腕もだ。こんな銀剣なんかを握る腕など、いっそ切り落としてしまいたい。
ただ、呆然と見つめる。その視線の先で人狼の目が瞬きもせずにこちらを見つめる。黄金の瞳。うつくしい瞳。少女の瞳。
ゆっくりと銀剣の先端が、弧を描いて持ち上がった。だがその先端は持ち主の迷いを写してかすかに震えていた。震える鏡の刀身が、カスパールの蒼白な横顔を写しこませる。
剣を構え、まっすぐに人狼を見下ろしながら、カスパールは、激しく痛み、朦朧とした頭の中で思った。
斬るのか。この少女を。
斬るのか―――
宙に剣をとどめたまま、カスパールは、ふいに、絶望のように悟った。
斬れる、はずが、ない。
―――己には、この少女は、斬れない。
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