33




「あかずきん……」
 カスパールは呻いた。人狼の目に、はじめて、憎しみではないものが生まれる。戸惑い。黄金と青灰。二つの瞳の視線が、たしかに、交錯した。
「カスパール!!」
 そんなカスパールを見たブルーノが、絶叫した。
 ブルーノが悪鬼のような形相となる。駆け寄り、カスパールを突き飛ばす。
「!?」
「貸せ!」
 砕けた左腕をつかまれ、カスパールは、瞬間、絶叫した。ブルーノはその手から銀剣を奪い取る。
 が。
「く!」
 手にのしかかるすさまじい重荷に、がくんとその肩が落ちた。
 ―――銀剣は、資格持つ主にしか従わない。
 だが、ブルーノは、そのすさまじい重さに腕を震わせながら、力任せに銀剣を振り上げる。憎しみに燃える目が見下ろしているのはただひとつ、人狼のみ。そして、絶叫とともに、銀剣を振り下ろそうとした。
 だが、その瞬間。
 突風のように、黒い影が、突っ込んでくる。
 それは裂けた片耳を持つ灰色狼だ。それを見分けたカスパールは目を見開いた。飛びついた灰色狼はブルーノの腕に噛り付いた。ブルーノは悲鳴を上げた。
「なんだ、こいつは!」
 銀剣が重い音をたてて石畳に落ちた。ブルーノは必死で裂け耳の狼を振り払おうとする。だが、鼻面に皺を寄せ、全力でかじりついてくる狼を振り払うことは容易ではない。ブルーノの手は腰に回された。とっさに抜き放ったのは大振りなナイフだった。銀で鍍金されたナイフが、月光にぎらりと光った。
「やめ……!!」
 カスパールがとっさに絶叫するよりも早く、

 ブルーノが、

 ナイフを、狼の首筋に突き立てた。


『 『裂け耳』―――!!! 』


 声ではない悲鳴が、頭蓋を裏から貫いた。
 ブルーノのナイフは、首筋を切り裂いて、裂け耳の狼は血をしぶきながら地面に落ちた。その瞬間だった。すでに動けないはずだった人狼が、よろめきながら、けれど、たしかに立ち上がった。咆哮する。絶叫にはたしかに悲しみの色があった。人狼は走り出した。その一撃が、横様に、ブルーノを吹き飛ばした。
「ぐはっ!!」
 まるで木っ端のように吹っ飛んだブルーノが、広場を囲む建物の壁にたたきつけられる。積まれていた樽がガラガラと音を立てて崩れた。カスパールは動けなかった。とっさのことに、反応しかねたのだ。
 よろめきながら立ち上がった人狼は、ぐったりと石畳に横たわった灰色狼に鼻面を寄せた。灰色狼は喉の奥でかすかに鳴いた。鼻にかかった、仔狼のような声。
 人狼はその体を舌で舐め――― そして、顔を上げる。人間たちを見た。
 そこには、銀剣を取り返したカスパールがいる。
 ブルーノの前に立ちはだかっている。
 ブルーノは、樽の残骸のなかで呻いていた。足が奇妙な方向に捻じ曲がっていた。もう戦えない。そんなブルーノをかばって、カスパールは、銀剣をまっすぐに構えていた。
 人狼は白い牙を剥きだした。よろめきながら足を踏ん張る。その漆黒の毛並みが、ざわり、とざわめいた。夜の風を呼んだかのように。
 立ちはだかったカスパールの背後で、げぼ、とブルーノが咳き込んだ。頭から血が流れ顔を染めていた。朦朧とした中でカスパールを呼ぶ。
「カス、パール」
 カスパールは、瞬間、肩越しにブルーノを振り返った。そしてその顔を見た。血まみれになった顔と、その目から流れ落ちる涙を。
 人狼もまた、凄惨な姿で立っていた。切り裂かれた腹からは、なおも血が流れ続けていた。その目は黄金だった。憎しみだけを燃やし続ける、この世でもっとも純粋な炎の色だった。
 その時、これが最期だ、ということは、皆に分かったことだった。
 ここでどちらが勝つか、それですべてが決まる。
 人狼が勝ち、人々が死ぬか、カスパールが人狼を狩り、人々が助かるか。
 己の選ぶ道がひとつしかないことなど、カスパールにはとうに分かっていた。
 銀剣を持つものとして与えられた定めはたった一つだ。魔を狩り、人々を救う勇者。魔獣狩人。その定め。その重さが、カスパールの双肩の上に、ずっしりと重くのしかかって。
 カスパールの前に立ちはだかる人狼。
 唾液の泡を噛み、炎の色の舌を吐き、黄金の瞳を爛々と燃やす魔獣。その恐ろしい牙と爪。人間の命などたやすく奪うことが出来る、寧猛極まりない森の『影』。
 ―――けれど、そのとき、カスパールの目が見たものは、漆黒の毛並みを持つ、人狼ではなかった。
 頭の傷で、なおも朦朧とし続けている視界には、まったく異なったものが映し出された。
 それは、少女だった。

 ……短く切られた黒髪と、汚れ傷ついた手足。
 哀れなほどに痩せこけて、瞳ばかりが大きな、まだ幼さの残る少女。
 その、黄金の、瞳。

「……せない」
 ぽつり、とカスパールがつぶやいた。ブルーノが目を上げた。耳を疑ったかのように目を見張る。
「殺せない」
 からん、と音がした。
 銀の剣が、地面に落ちた。
「俺には、君は、殺せない」
 ブルーノが、背後で、目を見張った。
「カスパール!!」
 絶叫する。その声にはまぎれもない憎悪の色があった。ブルーノはもがく。だが立ち上がれない。足が折れていた。もがくブルーノを後に、カスパールは、一歩、また一歩と人狼へと近づいていく。
 その表情からは色が抜け落ちていた。ただ、決意だけがそこにあった。
 カスパールは、淡く、微笑んだ。
「あかずきん」
 呼びかける。その声に、慈愛をこめて。
 人狼は激しく唸り、顎から涎を滴らせていた。激しい呼吸にしなやかな腹が波打っている。長い尾が油断なく伸ばされ、その爪は石畳を掴んでいる。
「俺にはやっぱり、君を殺せないよ」
 カスパールが言った瞬間、ブルーノが、絶叫した。
「裏切るのか、カスパール!!」
「……そう、かもしれない」
 カスパールの顔が、ふいに、ゆがんだ。
 澄んだ青灰色の双眸から、涙が、零れ落ちた。頬へ、そして、顎から落ちて、石畳の地面に落ちる。
「あかずきん、君を守れなくてごめん。助けてあげられなくてごめん」
 人狼は唸り続け、地面をその鉤爪で掻いた。声はもはや通じないかのように見えた。それでも、カスパールは、しずかに訴え続ける。
「俺しか君を守れなかったはずだった。でも俺は君を裏切った。だから君はそんな姿になってしまったんだ」
 ざあ、と風が吹いた。広場を囲む木々が揺れた。飛び立つように、空へと、風にむしりとられた葉が吹き散らされていく。
 月光に白く照らされた、カスパールの顔には、哀しい、どこまでも哀しい微笑みだけが浮かんでいた。
「俺は君だけを守れない。みんなを守らないといけない。俺は『人間』だから。……でも、ひとつだけ、願うことを、ゆるしてほしい」
 カスパールはゆっくりと腕を広げた。砕けた左腕をも。そして、抱きとめようとするように両腕を広げて、まっすぐに人狼を見つめた。

「どうか、俺を殺してくれ。その引き換えに――― この村を、見逃してくれ」

 なっ、とブルーノが息を呑んだ。
「何を考えてるんだ!?」
 カスパールの足元には銀剣が転がっていた。これを拾い上げて打ちかかれば、人狼を屠ることすらもできるはずだった。そうすれば村は救われる。満身創痍の人狼一匹、倒せぬ相手ではない。それなのに。
 だが、ブルーノの言葉にかすかに頭を横に振ると、カスパールは、哀しそうに微笑んだ。
「俺たちは君たちから奪いすぎた」
 しずかに訴えかけるカスパールを、人狼は、荒い息を吐き、泡を噛みながら、見つめていた。今にでも飛びかかれるように。たった一度の跳躍で、その獲物をずたずたに引き裂いてしまうことができるように。
「何かを返せるとは思えない。ほかのものもあげられない。……でも、もう、赦してほしい。君と戦うのはいやなんだ」
 カスパールの頬を、一筋の涙が伝った。
 カスパールは、己の襟を掴み、ぐいとくつろげた。現れるのはしなやかな筋に覆われた胸だった。
 その薄い筋の下で、心臓が、鼓動している。
「銀剣の騎士の心臓を、君にささげる」
 カスパールは、顎を上げて、目を閉じた。
「すべての罪は俺が背負う。どんな酷い殺され方をしようがかまわない。それと引き換えに――― どうか、ゆるしてほしい」
 背後でブルーノが何かをわめき散らしていた。だが、その声はカスパールの中には入ってこなかった。カスパールの中には、今、ただ哀しみだけがあった。深い深い哀しみが。
 皆が死んだ。
 皆が殺された。
 夜髪が殺され、ヴォルフが殺され、父やエンマ、人狼だったあかずきんの祖母、たくさんの男たちが死んでいった。
 何も取り返せない。すべてはすでに起こってしまったことだった。
 だが、これ以上の死を重ねることは、もう、いやだった。
 死ぬのはもう一人でいい――― たったひとつの命を捧げるだけで、もしも、このねじれた悲劇を終わらせることが出来るのなら。
「あかずきん」
 カスパールはうっすらと瞳を開き、唇に、微笑を浮かべた。
「ただ俺は…… 君に、生きて、ほしい」
 その瞬間、人狼が、黒い風のように走り出した。
 恐ろしい爪が地を蹴り、真紅の顎がおおきく開かれていた。白い牙が光った。カスパールは目を閉じた。ただ祈るだけだった。自分の命を引き換えに、せめて、せめて、彼女が足を止めてくれることを。
「カスパール―――ッ!!」
 ブルーノが絶叫した。
 その瞬間。

 カスパールの影と、人狼の影が、交錯した。

 ぼた、と血が落ちた。
 ぼた、ぼた、とさらに血が落ちる。石畳に血の染みをつける。カスパールは薄く目を開いた。熱い痛み。血が滴り落ちる。
 頬に触れると、そこには鉤爪が三本の深い傷を刻んでいた。顔の骨まで到達する傷だ。だが生きている。そうぼんやりと悟ると同時に、鈍い驚きを感じた。
 カスパールは振り返った。そこには、人狼が、地に降り立ったままの姿勢で、立ちすくんでいた。

「殺せるわけ、ないです」

 ふいに、少女の声が、泣き出しそうに震える声が、響いた。
 その瞬間、人狼の影が、『ほどけた』。
 影が溶ける。ゆっくりと薄まり、消えていく。漆黒の人狼の体のなかから、蝶が蛹を脱ぐように、白い少女が現れる。
 憎しみの皮を裂いて現れたもの。
 それは、まだ13歳の少女の、まぶしいほどに白い裸身だった。
 わき腹が裂かれ、肩には矢が突き立ち、白い腿をべっとりと血が覆っていた。それでも少女は白く、美しかった。
 未発達な細い手足。薄い胸乳。短く切られた黒い髪。そして、黄金の瞳。
 満月の黄金の瞳が、カスパールを見た。
 まっすぐに見つめたまま、ひとしずく、涙をこぼした。
 少女は表情をゆがめた。涙がこぼれだす。後から、後から。
「なんでそんなひどいことを言うの」
 少女は顔を覆った。
「わたしに、カスパールさんが、殺せるわけないのに」
 少女はがくりと座り込むと、顔を両手で覆った。裸の痩せた背中がかすかに震えだす。少女は嗚咽しだした。涙のしずくが、音を立てて地面に落ちた。
 少女は、しずかに、しずかにすすり泣いた。何を泣いているのか、カスパールには分からなかった。多くの死。多くの哀しみ。あまりに多くの痛み。
 カスパールは、よろめきながら、少女へと歩み寄った。
 そして、無事な右腕で、そっと少女を抱いた。―――少女は、その腕に顔をうずめると、声をあげて泣き出した。











 夜に風は吹き、星が天球を巡っていく。


 短い時間の間、ブルーノすら無言だった。カスパールはじっとあかずきんを抱きしめ、その震える背中をそっと撫でてやっていた。だが、時は訪れる。
 人間と人狼が、隔てられるべき時が。
 風に朝の匂いが混ざりだす。空がかすかに青くなる。鳥が鳴いている。
 やがて、あかずきんは、カスパールの手の中から、ゆっくりと立ち上がった。
「あかずきん……」
 見上げ、まだ残されたままの片手をそっと握ったカスパールに、あかずきんは、淡く微笑みかけた。溶け去って消えてしまいそうな笑みだった。
 何かを言おうとして、けれど、カスパールは何もいえなかった。少女は名残惜しげに指を残しながら、そっと手を離した。
 その足元に、何かが寄り添う。
 それは、灰色の毛皮を持つ、裂けた片耳の狼だった。傷からはなおも血が流れ続け、その毛皮をべっとりと濡らしていた。だが、頼りなげな足は、それでもまだ地面を踏みしめていた。
 少女は空を仰ぐ。遠く、風に耳を澄ます。風に混じる、はるけき狼の遠吠えに。
 それに答えるように、少女が、吼えた。
 その声は夜空に吸われ、まもなく、消え去った。ただ、夜闇にまっすぐに立った少女の裸身だけが、まぶしいほどに白い。
 見とれたかのように動けなくなるカスパールに、あかずきんは、しずかに言った。
「みんなに、来ないで、って行ったの」
「みんな……?」
「森のひとたちが来るの」
 はっ、とブルーノが短く息を呑んだ。あかずきんは顔を上げる。短い黒髪が、さらさらと風になびいた。
「明日にしてって言ったの。今日は来ない。でも、明日には、この村のすべてが、森に返される」
 白い少女の面差し。黄金の瞳。夜の風にうかびあがるシルエット。
「それが、わたしたちの、復讐……」
 カスパールは息を呑んだ。けれど、少女の姿からは目を離さない。カスパールはかすれた声で問いかけた。
「君は、どうするんだ?」
 あかずきんは、淡く微笑んだ。
 微笑みながら、一滴の涙をこぼした。


「わたし、カスパールさんのこと、大好きでした」


 それが、すべての答え、だった。
 声を失うカスパールに、最後に一度だけ微笑みかけて、あかずきんはきびすを返した。傍らの狼の背に手を置くと――― その姿が、ふいに、湧き上がった影に呑まれた。
「あかずきん!」
 その瞬間、もはや少女は少女ではなく、漆黒の毛並みもつ人狼だった。
 人狼はすこしだけ振り返り、その黄金の瞳でカスパールを見た。頭の中に声が響いた。


 ワタシノ ナマエヲ アリガトウ
 
 ……サヨウナラ。


 その瞬間、激しい風が吹いた。
「―――!!!」
 散った葉がいっせいに舞い上がり、カスパールは、思わず、右腕で顔をかばった。
 そして、一瞬の風が止まった後。


 そこには、もう、人狼の姿も、灰色狼の姿も、無くなっていた。


 カスパールは呆然と、いまや姿すらも消えうせた二人を探した。だが、その姿はどこにもなかった。もはやどこにも。
 ……ふいに、奇妙な笑みがこみ上げた。
「はは…… ははは」
 かすかに乾いた笑いを漏らすと、喉に咳がこみ上げた。苦しい。カスパールは咳き込んだ。それでも笑った。笑い続けた。誰の目もかまわず、傷がうずくのもかまわずに、声をあげて笑った。笑い続けた。
 カスパールは、笑いながら、泣いた。
 





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