34
わたし は わたし の にくしみ を
とりかえし た
―――解かした乳のような霧のただよう森を、ひとりの少女が、よろめきながら歩いていく。
血で濡れた肢体はかぼそく、薄い胸乳の下に浮き出した肋骨が、あえぐような呼吸に上下していた。
べったりと血にぬれた髪が、細い首筋に、顔に、張り付いている。さながら赤黒く濡れた被り物のようだ。露にぬれた草が少女の肩を、胸を打つ。しずくが滴り落ちる。
緩慢に草を掴み、足は膝まで土にまみれながら、少女は、ゆっくりと森の奥へと入っていく。その背後をすりきれた影のように歩いていくのは灰色の狼だ。だらりと舌を吐き出し、足を引きずりながら、それでも、忠実に少女の後を歩いていく。
ふいに、つま先を倒木に取られた。少女は倒れる。
「……っ!」
泥水が跳ね散った。
腐った木の葉や、骨のようになった木。灰色の沼の中に倒れ付したまま、少女はぼんやりと眼を開く。
傷口から流れ出す血。ずくずくと痛むわき腹。濡れた髪が顔に張り付いた。仮面のような白い顔に、黄金の瞳が開いていた。その眼は何も見ていなかった。
わたし は わたし の にくしみ を
―――少女は、なぜ母が、『憎むな』といったのかを、考え続けていた。
少女はかつて何も知らなかった。何も知らず生きていた。哀しみや喜びを感じても、すべてはおぼろげで、霧の向こうに隔てられたように霞んでいた。その日々は何もなく、心もなく、空っぽで、平坦で。
だが、少女は、『憎しみ』に出会った。
己がすべてを奪われ、蔑まれ、打ち棄てられていたのだということを知った。人々は彼女から奪うだけだった。何も与えなかった。少女を守ってくれるもの、愛してくれるもの、すべてが奪われ、破壊されていた。
だから少女は、『憎しみ』をおぼえた。
愛するものを奪われたとき、己自身を踏みにじられたとき、そこに生まれるものが『憎しみ』だということを少女は知った。すなわち、己が無ければ『憎しみ』も無い。守りたいと思うものを知っているからこそ、何かを『憎む』ことをおぼえるのだ。
母は知っていたのだろう。『憎しみ』が『狼』であるということを。
『憎しみ』を受け入れ、『憎しみ』に呑まれたとき、少女は『憎しみ』そのものになる――― 『狼』となる。
人の中に隠れて生きていくためには、『狼』は忌まれるものかもしれない。
けれども……
おかあさん
少女の唇がかすかに動いた。青ざめて震えていた。素裸の少女は泥沼の中でゆっくりと丸くなる。胎児のように。歩み寄った狼がそっと頬を舐めた。けれど少女は動かなかった。眼だけが開いていた。黄金のうつろだけをたたえた眼が。
少女の視界は、ゆっくりと、闇に閉ざされていく。痛みも感じなくなる。無感覚の暖かい泥のような眠り。
それは、死の眠り。
……眠りの淵で、少女は、それでも、思い続けていた。
自分自身として生きたかった。『狼』であってもよかった。何もかもを殺しつくす、呪われた存在であってもよかった。
これ以上なにも奪われたくなかった。何も知れない薄闇に戻ることなどもう出来なかった。前に進むしかなかった。自分自身として生きるためには。
おかあさん
それでも わたし は
わたし じしん に なりたかった
それ が たとえ
おおかみ で あっても
くうん、と狼が鳴いた。哀しげな眼で、動かなくなった少女を見下ろした。
そして、天を見上げ、高い声で鳴いた。
甲高い、澄んだ鳴き声が、霧に閉ざされた森の空気を揺らした。誰かを呼ぶような声だった。哀切な鳴き声。遠い呼び声。
少女は淡く微笑んだ。そのつもりだった。
もういいよ、と狼に語りかけてあげたかった。
誰も助けてはくれない。誰も救ってはくれない。ずっとそうだった。今回もそうだろう。たった二人、少女を守ってくれた人の一人は無残に殺され、もうひとりは少女自身と争う道を選んだ。
それでも、彼だけは殺せなかった。
カスパール。
彼は『憎しみ』の腹を裂き、少女をそこから引き出した。
それが何を意味していたのかは知らない。けれど少女は『憎しみ』をけして捨てない。彼女が『憎しみ』を捨てるときは、もはや、彼女が彼女ではなくなるときだ。
けれど。
ならば、開いたままの瞳に、涙があふれるのは…… なぜなのか。
それでも―――
もう一度だけ―――
そのとき、だった。
狼が、敏感に、顔を上げた。
少女は顔を上げない。あげるだけの力ももう残されていない。けれど、その少女の体に、そっと腕が差し伸べられた。
何本もの腕が、少女の体を抱き上げる。あたたかい、獣くさい腕だ。その腕が少女を沼から引き上げ、泥水と血をぬぐい、毛布で包んだ。少女の口元に皮の水袋があてがわれる。中身はまだ暖かい、何かの血だった。赤子が乳を吸うように、少女は無心にそれを飲んだ。
「飲んだか」
「間に合ったようだな」
少女の目に、ぼんやりと、光が戻る。視界が帰ってくる。そして少女は見た。自分の体を抱き上げ、気遣い、顔を覗き込んでくる人々を。
灰色の髪、黒い髪、茶色の髪。日焼けた肌、白い肌、浅黒い肌。
けれど、すべての人々に共通しているもの、それは……
……黄金の、瞳。
「おお、かみ?」
あえぐようにつぶやいた少女に、人々の一人が微笑んだ。痛みをこらえているような笑顔だった。それは壮年の男だった。
男は手を差し出すと、分厚い手袋の手で、少女の額に触れた。
「そうだ。われわれはお前の仲間だ。『あかずきん』」
額を撫でる大きな手のひら。分厚く、たくましく、暖かい。
少女は息を呑んだ。差し出されるとは夢にも思わなかった救い。
これは、ゆめ?
しかし、夢ではない。体をつつむ分厚い毛布の暖かさが、抱き上げられる感触が、口に残る塩辛い味が、すべてが真実だと告げている。
そして、彼女は知らなかったが、少女にとって、もうひとつの生が開けた日―――。
仲間、と出会った、瞬間だったのだ。
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