4
夕食代わりに渡されたものは、今日は豚の臓物を煮込んだものだった。
生臭い匂いには閉口したけれど、普段の食事に渡される、焦げたパンや腐りかけた茸の瓶詰めなんかよりも、ずっと栄養価は高いだろう。なによりも腹いっぱいに食べられたことがありがたい。腹がくちくなれば眠くなる。少女はいつものように、馬小屋の片隅に積み上げられた藁のなかにもぐりこんだ。
藁の中には刺す虫が多くて、むき出しの手足はいつも虫刺されだらけだ。けれど、この季節はあたたかくなってくるおかげでかなりしのぎやすくなってくるのがありがたかった。
今日は昼間に、カスパールにも会えたし、と少女は思う。
カスパールは少女に親切だ。無視を決め込む大人たちとも違うし、みすぼらしい姿を笑う少年少女たちとも違う。少女のことを哀れんでくれる、もしかしたら唯一の人かもしれない。
少女がまだほんの子どもだったときからずっとそうだった。
豚を追い、重い手桶を運んでいるときに、手伝ってくれたのはカスパールだけだった。なぜなのかは知らない。けれど、カスパールは、昔からずっと、少女に親切だった……
ふと。
「チビちゃん、いるかい?」
馬小屋の入り口から、誰かが呼ぶ。少女は驚き、半身を起こした。髪についていた藁がぱらぱらと落ちた。
上下の分かれた開き戸の、上が開く。フードをかぶった誰かが覗き込む。暗い茶色の髪が見えた。「チビちゃん」ともう一度呼ぶ。少女は目を丸くした。
「カスパール……さん?」
「寝てたかな、ごめん」
ひかえめに言うカスパールに、少女はあわてて首を横に振った。立ちあがり、扉を開ける。そこにはフード付きマントで顔を隠したカスパールが立っていた。
「あの、なにか……」
何か気に触ることをしただろうか、怒らせるようなことをしただろうかと、少女はびくびくと問いかける。そんな少女の態度に、カスパールは一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐに、笑顔に戻る。
「ちょっとね、家を抜け出してきたんだ」
片手をあげて、ちいさな袋を示した。
「おすそ分けだよ。干し果物の焼き菓子と林檎酒。よければ君も食べないかい?」
馬小屋を出ると、空には、ばら撒いたような星が光っていた。
夜露に濡れた草にすわり、がつがつと菓子を食べる少女に、傍らに座ったカスパールは、「美味しい?」と声をかける。口いっぱいに菓子をほおばったまま、少女は何度もうなずいた。甘いものなんて食べたのは、いったい何年ぶりであることか。
「喉に詰まらせるなよ」
カスパールは少女の頭を撫でた。垢じみた頭巾を。
菓子をあらかた食べ終わり、林檎酒で流し込み、指まで舐めて、ようやく少女は一息をつける。そして、お礼を言っていないことに気づいて、上目遣いにカスパールを見た。
「あの……」
「うん?」
「ありがとう…… ございます……」
うん、と言って、カスパールはうれしそうに、けれど、ほんの少し悲しそうに笑った。
青灰色の瞳。首の後ろで結わえた、暗い茶色のまっすぐな髪。昼間の騎士団の入った旅装束とは違い、今のカスパールが着ているのはほかの村人と同じような木綿と麻のシャツだった。こういう格好をしていると昔のままのカスパールのようだと、少女はすこしだけうれしくなる。
「君はあまり大きくならないなあ」
少し悲しそうな声で言って、カスパールは少女の頭を撫でる。ふけだらけの、脂じみた髪。垢で汚れた頭巾。少女は少しどきどきする。そっと、カスパールの手を取り除けた。
「あの…… 手が、汚れます」
「そんなこと、君が言わなくてもいいんだよ」
少し怒ったような声で言って、カスパールは、なおさら強く頭を撫でた。
「服が少し小さくなったかい?」
「へ、平気です。まだ着られるから」
「……冬場は寒かっただろう」
「へ、平気、です……」
少女がどもりながら言うと、カスパールは悲しそうな顔をした。そして、腕を伸ばす。抱き寄せられて、少女は、目を白黒させた。
「ちっちゃいなあ。それにやせてる」
カスパールの服からは、革の匂いと草の匂いのまじりあった香りがした。そのたくましい腕のなかにすっぽりと収まったまま、少女は、目をぱちくりと瞬く。
「あの、カスパール、さん?」
「チビちゃん、いっそ、俺と結婚しないか?」
冗談めかした口調でカスパールが言う。少女は吃驚した。
「けっこん?」
「そうしたら、こんな馬小屋で暮らさなくてもいい。……結婚じゃなくてもいいな。妹がいい。チビちゃん、俺の妹にならないか」
少女は返事に困った。困りきったまま、身体の前に回された、カスパールの腕を掴んでいた。
「あの」
「うん?」
「あの、……なんで、私の心配、してくれるの」
カスパールは、すこし、悲しそうに笑った。「なんでだろうな」と言って、少女の頭を撫でる。
「俺は、君がつらい暮らしをしていると、つらいんだよ」
「……?」
眼を細めた笑顔が悲しそうだった。カスパールが何を考えているのかは分かりかねた。
「あの、その、……ごめんなさい」
「うん?」
「あの、カスパールさんに、かなしい気持ち、させて……」
カスパールはしばらく黙っていた。けれど、ふいに手を伸ばすと、少女の身体をぎゅっと抱く。出し抜けに抱きしめられて少女は驚いた。カスパールは、少女を膝の上に抱き寄せて、黒い髪に、汚れた頭巾に頬を寄せる。
「あ、あの、あの」
汚い。それに、臭いはずだ。少女はあわててもがいた。だが、カスパールは離さない。黙って少女を抱きしめていた。やがて少女は抵抗をやめて、代わりに、上目遣いにカスパールの顔を見上げる。
眼を閉じた表情。胸が少し温かくなった。なんだか、兄の膝にでも抱かれているような気持ちだった。兄どころか、母の記憶すら、少女には希薄だったのだけれど。
―――その瞬間、記憶の底で、何かが動いた。
……約束して、……。
けっして……
少女は目を開いた。
なんだろう、この記憶は?
「チビちゃん」
「は、はい」
「君、本当に、王都に来ないか」
少女は驚いて、カスパールの顔を見上げた。
冗談かと思った。あるいは同情から出た一時の気の迷い。けれど、カスパールの表情はひどく真剣なものだ。冬の空のような青灰色の眼が少女を見下ろしている。
「俺はまだ、ただの見習い騎士だけど…… でも今、俺に、王子の親衛隊への推薦の話が出ているんだ」
まだ確実ではないから、誰にもいっていない話なんだけれども、とカスパールは前置いた。
「もしもそれが認められれば、俺も王都の住人として正式に認められる。地籍が王都に移るんだ。そうすれば、君を引き取ることもできるよ。養子にするのでも、それこそ結婚するのでも、方法はいくらでもある」
もちろん、君がよければだけどね、とカスパールは言った。
「まだ何年かかかると思う。でも、そのころには君は結婚できる年にもなってる。もしも俺が嫌なんだったら、養子として引き取って、王都で縁談を探すことも出来るよ」
少女は、ただ、目を丸く見開いて、カスパールの顔を見上げていた。
王都。ここから遠く、海のそばにあるという。狼の遠吠えを聞くことも無く、魔物の跳梁におびえることもないという、人間たちの都。
どんな場所なのか想像も付かなかった。それ以前に、自分が王都に行くなど、想像することすらできない話だ。
そして、そんなことよりも先に、気になっているのは。
「あ、あの、カスパール、さん」
少女は、体の前に回された腕を、きゅっと掴んだ。
「ど、どうして、そんなに私に、親切にしてくれる……の?」
自分みたいな、汚くて、ちっぽけで、やせっぽっちの、親無し子に。
罵声を浴びせられること、小突かれて追いやられ、こき使われることには慣れていた。けれど、こんな風に抱きしめられて、やさしい言葉をかけられることには慣れなかった。だから、どうすればいいのか分からない。なんと返事をすればいいのかすら、分からないのだ。
「さっきも言っただろ。君がつらい思いをしていると、俺もつらいって」
カスパールは、眼を細めて、少女の頭を撫でた。
「だって君は、……」
言いかけて、口をつぐむ。
何かを黙り込むカスパールに、気づいた少女は目を瞬いた。見上げる。青灰色の眼。
少女の視線に気づいたカスパールは、にこりと笑った。そして手を差し出す。小指を。
「約束しよう。してくれたら、いいことを教えてあげる」
「え……?」
「俺がちゃんと迎えにいけるようになったら、君を王都に連れて行く。王都はとてもきれいだ。俺がお仕えしている王城も見せてあげる。ステンドグラスがとても美しいんだ。色硝子を組み合わせて、四季の天使を描いている…… 想像できるかい?」
少女は目を丸くして、首を横に振った。カスパールは笑い、少女の頭を撫でた。
「きっと見せてあげるよ。だから、俺と一緒に来てほしいんだ。約束してくれるかい?」
少女はためらった。むしろ、困惑していたのだ。
どうしてカスパールがこんな風に言ってくれるのかが分からない。けれど、座った膝も、身体に回された腕も温かい。こんなぬくもりは知らなかった。なんだか涙が出そうだった。
だから。
「……はい」
ためらった末、少女は、カスパールの小指に、自分の小指を絡めた。
カスパールはにこりと笑った。「指きりだね」といって、しっかりと指を絡める。
「じゃあ、教えてあげるよ。……君の……」
カスパールは声を潜め、少女の耳元に口を寄せる。ちいさな声でささやく。少女は目を丸く見開く。
「え……?」
驚き、弾かれたようにふりかえる。カスパールは眼を細めて笑い、少女の頭をまた撫でた。
―――二人は、気づかなかった。
ドロテアが、カスパールを追いかけてきていたということにも。そして、声をかけることもできず、ひとり、木陰の暗がりにたたずんでいたということにも。
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