5
今から10年も、前のことだ。
木々の間から木漏れ日がこぼれていた。光がきらめいて下草を光らせる。細かな花が咲いていた。白い花、青い花。
そして、その花を蹴散らすようにして、少年が、森を歩いていた。
うつむいて、硬くつま先をにらみつけて。青灰色の眼には涙がにじんでいた。にじむ涙を拳で振りちぎって、少年は、花盛りの森をまっすぐに歩いた。
遠く、鐘の音が聞こえてきた。弔鐘だった。少年は立ち止まり、眼を上げる。こんなところまで聞こえてくるなんて。
あの音から逃げたかったのに。少年はしゃがみこみ、耳をふさぐ。頭上には枝を広げた樫の木。緑のこずえから木漏れ日が降り注ぎ、草は白い花を揺らす。涙をにじませた眼で、少年は、硬く硬く身体を縮める。
聞こえるな、鐘の音。聞こえるな。
消えてしまえ。
消えてしまえ。
……
…
「……どうしたの?」
ふと、声が聞こえて、少年は顔を上げる。瞬間、眼がくらんだ。まぶしい木漏れ日に。
―――誰かが立っている。
白いエプロンに木漏れ日が揺れる。光と影のレース。ほっそりと背が高い。ほの白い顔。背中に流した闇色の髪。そして。
金色の、瞳。
女だった。まだ若かった。見知らぬ女だった。きょとんと少年を見下ろす。
けれど、やがて、にこりと微笑むと、女はスカートをたたんでしゃがみこむ。少年と目線の高さを合わせた。
「こんなところで、どうしたの?」
女が小脇に抱えた籠には、摘んできたらしい香草が束になっている。かすかに甘く涼しい匂いがした。そっと差し出して、汚れた頬を拭いてくれる指が、わずかに緑色に染まっている。
「……だあれ?」
見知らぬ女。それがどれだけ奇妙なことか、まもなく少年は気づいた。
ちいさな村だった。知らない人など一人もいない。まして、こんな闇色の髪、金色の瞳の女など見たことも無い。いったい何ものなのだろう、とぼんやりと見上げる少年に、女は長いまつげをまたたく。少年の頬に触れた。
「どうしたの。ほっぺたを切ってるわ。いばらで引っかいたのかしら」
女はすっと立ち上がった。そして、「いらっしゃいよ」と少年を招く。
「顔を洗いなさいよ。ちかくに水場があるから」
女に従ってしばらく歩くと、林檎の木の下にちいさな小屋を見つける。丸石を積んだ壁。ほんとうに粗末なちいさな小屋だ。ちかくに石が積まれていて、間にさらさらと銀色の水が沸いていた。
顔を洗っていると、女が香草をより分ける。あまり見慣れない草の葉を揉むと、「これをつけて」と手渡してくれた。
「ヤミノメソウよ。傷に効くから」
つんと鼻につくような涼しい匂い。それに、林檎の花の甘い香り。頭上には乳色をした星のような花が点々と咲いていた。囲いのなかの鶏。ちいさく素朴な小屋。こんな場所に人が住んでいるなんて知らなかった。
気づけば喉がひどく渇いていた。手ですくって口をつけると、湧き水は、つめたくあまい味がした。
「落ち着いた?」
女が笑いかける。急にばつが悪くなって、上目遣いで、女のほうを見た。
「……お姉さん、誰?」
「そうね、誰かしら」
女はやさしく笑った。ほのしろい顔。ちかくの石の上に腰掛ける。
「君、村の子でしょう。どうしたの、そんな服を着て」
あらためて思い出し、少年は、自分の服のすそを引っ張った。少年が着込んでいるのは亜麻のシャツ。それに、伝統の刺繍を施したベスト。短いズボンと革の靴。この地方の伝統の服装。
けれど、帽子をかぶらず、代わりに頭に布を巻いているのは、凶事に対する正式な礼法だ。袖口にもズボンの裾にも同じ伝統模様。死神の視線を防ぎ、死者の穢れをはらうための。
そう思った瞬間、ふたたび、じわりと涙が湧いた。
少年は乱暴に拳で涙をふりちぎる。ぶっきらぼうな口調で言った。
「妹が、死んだんだ」
女はかすかに小首を傾げ、黙って少年を見た。
「―――生まれたばっかりの妹だった」
少年の妹は、この春に、生まれたばかりだった。
もうだいぶ年嵩だった、少年の母が産んだ娘。少年にとっては7つ年の離れた妹。
ぽっちりとした茶色い眼と、頭のまわりを飾っていた薄黒い巻き毛を覚えている。ちいさなちいさな手のひらに触れると、きゅっと指を握り締められたのを覚えている。甘ったるい乳の匂い。笑い声。
「……どうしたの」
「病気だったんだ。母さんがいなかったから。乳母はいたけど、そのうちお乳も飲めなくなって、死んじゃった」
少年の母は妹を産んだときに果敢なくなった。もう年嵩だったから、お産が身体に応えたのだろう。覚悟されていたことだった。妹が母の腹のなかにいたころから。
―――母が妹を身ごもったのは、去年の初夏。
妹か弟が生まれる、という話を聞いたとき、喜ぶよりも先に戸惑ったのを覚えていた。少年は末子だったから。甘やかされた末子の少年にとって、自分の居場所を脅かすような弟妹が生まれるという話がどういった意味を持つのか。けれども、すねたような気持ちでいたのは、ほんのひとときのことだった。
次第に身体を動かすことが大儀になっていく母を手伝い、母が赤子のための産着を縫うときには、揺り椅子のそばに座って眺めていた。いくら見ていても飽きなかった。母の腹の中に自分の弟か妹がいる。その不思議。あたたかい気持ち。
……もとから、子供を生むには年を取りすぎていたから、母は、少しは覚悟をしていたのかもしれない。
だから、少年に言ったのだ。おとうとかいもうとか知らないけれど…… 生まれたら、きっとあなたが守ってあげてね、と。
確かに守るつもりだった。生まれてきたちいさな妹の手に初めて触れて、その手に指を握られたときから、妹は少年にとって何よりも大切な存在になった。守るべきもの。少年にとって生まれて始めての。
なのに。
「人間の赤ん坊は、とても弱いものね」
女は、淡々と、けれど、寂しそうな口調で言った。
「……知ってる」
「あなたのせいじゃないわ」
「知ってる」
少年は、かぶった布をぎゅっと掴み、目深におろした。
そうだ。分かっている。誰のせいでもない。それは自然の摂理。けれど。
「―――でも、父さんたち、言ったんだ」
女は金の眼をまたたいた。少年はかすれた声で言う。
「妹はとても可愛いから、天使にするために、神様がつれていってしまったんだよって……」
冗談ではない。少年は、ぎゅっと唇をかみ締める。
天使だなんて。まさか神様が、天国に可愛い天使がひとり必要になったから、あの子にしよう、などと思って妹を連れて行ったとでも言うのか? ばかげている。それどころか、すぐに死んでしまうと決まっていたのなら、なぜ、生まれてこさせてなどしたのだ。
そんな神様なんて、まっぴらだった。母が命をかけて産んだ妹を、すぐに連れ去ってしまうなんて。あんな小さな体で、熱に浮かされて、乳を吐き、最後にはやせ細って死んでいった。そんな死に方をあんな小さな妹に押し付けるなんて。
「俺、神様なんて、嫌いだ」
少年は吐き捨てた。女は、しずかな金色の目で、まっすぐに少年を見ていた。
―――そして、やがて、眼を伏せた。
「そうね」
女は白い手を上げ、奇妙な紋を宙に描いた。おそらくは祈りのしぐさだろう。少年は目を瞬く。奇妙なしぐさ。
「教会の中にだけ閉じこもってる神なんて、おかしなものよ。たったひとりしか神がいないなんて奇妙だわ」
少年はおどろき、眼を上げた。
女はおだやかに微笑んでいた。額で分けられた闇色の髪。きれいな金色の目。けれど、なんて奇妙なんだろう、と少年はあらためて気づく。金色の目の人間なんて、見たことが無い。
ややためらって、少年は、つぶやいた。
「そんなこと言ったら、神父様に怒られるよ」
「いいの。私は教会になんて行かないもの」
女はおだやかに笑った。
「人間の教会は人間のものよ。私たちの神様は、もっと、別のところにいるのよ」
「私たち……?」
「そう」
女は立ち上がった。そして、湧き水に手を差し入れて、銀色に透き通った水をすくった。
「水にはね、水の神様がいるの。森には森の神様が。土には土の、空には空の、鳥には鳥の」
女の白い手からこぼれる水、そのしずく。きらめく銀色を、少年は、まるで生まれて初めて見るものであるかのように見る。そして、女の顔を見上げる。
女は微笑んでいた。おだやかに。
「生きているものはみんな神様だわ。天国なんてどこにもないの。地獄もよ。それは人間が考え出したものなの。森のものは森に帰るし、海のものは海に帰るの。そして、みんな、最後にはきっと帰ってくるんだわ」
「お姉さん、異端なの?」
少年はおどろき、思わず聞く。女は答えない。かわりに静かに微笑んでいた。歌うように言った。
「人間以外に魂が無いなんて、人間以外の生き物が言うかしら。ほんとうはこの世のすべてのものには魂があるのに。草にも、虫にも、風にも」
「たましい……」
「ええ。あなたも、私も、あなたの妹も」
いもうと、といわれて、少年は、心臓がごとりと跳ねるのを感じた。
土の中に埋められる、小さすぎる棺。弔鐘。賛美歌。
あんなものの中に、妹はいなかった。だから逃げ出してきたのだ。
女の言うことは、奇妙だが魅力的だった――― だったら、妹はどこにいるというのだろう?
「じゃあ」
少年は、半信半疑で、問いかけた。
「俺の妹は、どこにいるの?」
「どこにでも」
女は答えた。微笑みながら。
「死んだ人はどこにでもいるのよ。そして、そのうち帰ってくるの。もう一度大事な人に会うために」
たとえば、といって、女は自分の腹を撫でた。
「こんなところにとか、ね」
女の不思議に満ち足りた…… そのくせ悲しそうな笑顔に、少年はハッとした。
「赤ん坊がいるの?」
うん、と女は頷いた。うれしそうに、少し、悲しそうに。
「この子はとても可哀想な子。きっと、とても悲しい思いをすると思うわ。でも、生まれてくるというのは素敵なこと。悲しいことも、生まれてこなかった子供たちに比べれば、とても大きな喜びだもの」
自分に言い聞かせるような口調は、途中から独り言になって、少年の耳にはかすかに聞こえただけだった。
けれど、どういうことだろう、と少年は思う。かわいそうとはなんだろう。悲しいことって。
少年が問い返そうとしたそのとき、女が、唐突に顔を上げた。
金色の目を細め、村のほうを見る。なんだろう、とつられてそちらを見る。何も無い。誰の気配も無い。けれども。
「……君、そろそろ帰ったほうが良いわ」
女が言う。
「え?」
「人が来るの。私と会っていたって分かったら、きっと、君が怒られてしまうもの」
少し悲しそうに女は笑い、少年の背中をぽんと押した。
「さあ、戻りなさい。ご家族が心配しているわ」
どういう意味なのか分からない。だが、女の口調には、ものやわらかな癖に、動かしがたい何かがあった。
仕方なく少年は歩き出す。声に背中を押されるように。
けれど、数歩歩いて、振り返った。
「また来てもいい?」
女は答えなかった。まっすぐに少年を見て、小首をかしげる。金色の目。
「また、お話を聞かせて。どこにでもいる神様の話とか、その…… あと、お姉さんの赤ちゃんに会いたいんだ」
女は少しびっくりした顔をして…… すぐに、笑った。そして少年は初めて、女が今まで、笑顔らしい笑顔をみせていなかったということに気づく。
「気をつけて。誰にも気づかれないでね」
笑いながら女は言う。少年は大きく頷いた。そして歩き出す。…… またすぐに振り返って、もうひとつ、問いかけた。
「僕の名前は、カスパールっていうんだ。あなたは?」
女は答えなかった。その、ものやわらかな微笑に、木漏れ日のレースがゆれた。
弔鐘は、いつのまにか、聞こえなくなっていた。
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