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 翌日、いつものように井戸で水を汲んでいた少女に、めずらしく、ドロテアが話しかけてきた。
「ねぇ、あかずきん」
「はい?」
 手桶に水を移す手を止めて、眼をまたたく。ドロテアは周りを見回しながら少女のほうへと歩いてきた。何の用だろう、と少女は首をかしげる。
 昨晩、少女は、ひさしぶりに満ち足りた気持ちで眠った。
 腹はいっぱいだったし、それに、カスパールとあんなにいろいろと話せた。人のぬくもりはとてもひさしぶりだったから、思い出して腕に抱いているだけでいい夢が見られた。だが、ドロテアのほうはそうではなかったらしい。緑色の眼にはひどく険があった。そのくせドロテアは、にっこりと少女に笑いかけてくる。
「いつも大変ね。こんな早くからお仕事なの」
「はい……」
 少女はとまどいながら頷いた。
 まだ朝も早い。外にはかすかに霧が漂っていて、空気はひんやりと頬に触れた。露に濡れた草。樹の梢。
 こんな時間にドロテアが外に出てくるのは珍しかった。パンを焼かなければいけない日には早起きするが、そうでなければ、ドロテアは朝霧が消えるころまで眠っていることが多い。まして昨日は村長の家で、遅くまで飲んで騒いでいたはずなのに。
 昨晩の刺繍のエプロン、プリーツのスカートはもう脱いで、今日のドロテアはシンプルな羊毛のスカート姿だった。背中で結わえたやわらかい茶色の髪。その髪を指でいじりながら、ドロテアは言う。
「昨日ね、私、カスパールと話すつもりだったの。でもダメね。彼、ぜんぜん人と話をしてくれないの」
「はい……?」
「昔っからまじめだったけど、最近はますますみたい。この周りの村で人狼が出るって話で頭がいっぱいだったみたい。私、がっかりしちゃった」
 せっかくおしゃれをしていったのに、とため息をつく。
「私がカスパールのためにあんなにおしゃれしたって、わかってくれなかったの。昨日のエプロンだって彼のために何年もかけて刺繍したのに。なんだか私、私のエプロンが可哀想になっちゃった」
 少女はますます困惑した。
「あの……」
「何?」
 ドロテアはちらりと少女を見た。少女は口ごもった。
 水でいっぱいの手桶が重い。これから何回も往復して、馬小屋と豚小屋の水飲みを満たさないといけないのだ。
 水を満たした後は、藁を変え、餌をやらなければならない。それが終われば豚たちを小屋から出して樫の林へつれていく。そのすべてを朝霧が消えないうちに終わらせなければいけないのだ。
 ドロテアが何を言いたいのかは分からなかったけれど、無駄話をしている暇は無い。でもそれを言うのは怖い。もじもじしている少女を、ドロテアは、冷たい眼で見やった。
「そういえば、あかずきん」
「はい?」
「昨日、カスパールと話してたわよね」
 何気ない口調で言う。だから、少女は「はい」と頷いた。
「なんでお話してたの?」
「あ…… あの、カスパールさんが、私に、食べ物、持ってきてくれて……」
 いいながら、なぜドロテアがそれを知っているのだろうと、かすかにいぶかしむ。昨晩、馬小屋をたずねてきたのはカスパール一人だったはずなのに。その疑問はすぐに解けた。
「私ね、昨日、カスパールと話したいなぁって思って、彼が出てったのを追いかけてったの」
 ドロテアは物憂げな口調で言う。少女はハッとする。
「そしたらここまで来たのね。あなたと彼が話してた。なんの話かはわからなかったけど、カスパールがあかずきんを膝にすわらせてたわ。いいのかしらって私思った。あかずきん、臭いし汚いじゃない」
「あ、あの……」
 話を聞きながら、少女は、おろおろとうろたえはじめる。ドロテアのほうを見るけれど、言葉が出てこない。なんと言っていいのか分からないのだ。
 ドロテアが機嫌を損ねているらしいということは分かった。けれど、なんでなのかが分からない。自分がカスパールと話していたのがいけないのだろうか。けれど、なんといって謝ったらいいのだろうか?
「あの、ごめん、なさい」
 少女はおどおどしながら謝る。ドロテアはそんな少女をちらりと見た。桜色の唇に、ふっと笑みを浮かべた。
「いいのよ」
 やさしい口調に、少女は、顔を上げる。
「カスパール、やさしいもんね。あかずきんのこと、ほっとけないんだわ。だから、こんなものをあげたりしたのよ」
 言って、ドロテアは手をあげる。その指先で、銀の鈴が、ちりん、と音を立てた。
 少女は目を見開く。カスパールがくれた鈴。
 ドロテアは、鈴を指先でもてあそぶ。
「カスパール、私が持ってたのを見て、怒ったの。これはあかずきんにあげたんだって。哀しかったわ。だって、これ、あなたが私に貸してくれたんだもん。でも、そうやって説明したかったけど、できなかった。聞いてくれなかったの。だってカスパール、すぐにあかずきんのところに行っちゃったんだもん。……でも、もういい」
 だから、とドロテアは言った。ふわりと笑った。
「これ、返すわ」
 言うなり、ドロテアは、腕を振り上げた。
「あ……!!」
 少女は思わず声を上げる。ドロテアは、鈴を、投げた。
 銀の星のように光りながら飛んだ鈴。その鈴は、まっすぐに井戸のほうへと飛んだ。かちん、と石積みに跳ねて、井戸の中へと落ちた。少女はとっさに井戸のふちへと駆け寄った。身体を伸ばして中を覗きこむ。暗い井戸の中。
 そして、次の瞬間。
 どん、と背中を押された。
 少女は、目を見開いた。
「きゃ……!」
 短い悲鳴。何をされたのか。それを理解するよりも先に、体がバランスを崩す。
 
 大きな水音。

 少女は一度、完全に水に没し、すぐに浮かび上がった。おぼれかけたのは一瞬で、すぐに底に足が付いた。慌てて立ち上がると、水は肩ほどまでの高さがある。げほ、げほ、と少女はむせて、飲み込んでしまった水を吐き出した。
 頭が混乱してわけが分からなかった。何が起きたのだろう。その瞬間、頭上から笑い声が降ってきた。
「あははははははは!!」
 とっさに頭上を見上げる。まるく切り取られた空。そして、そこから覗き込んでくる、ぎらぎらと光る緑色の眼。
「ど、ドロテア、さ」
「どう、頭が冷えた?」
 ドロテアは、うれしげに言う。
「足が付くから溺れはしないでしょ。ちょうどいいわ。そこで頭を冷やして考えなさいよ」
「え……!?」
「カスパールは誰にでも親切なの。あかずきんにだけ親切なんじゃないの。それに、あかずきんが可愛がってもらえるのは、あんたが子供だからなんだわ」
 何を言っているのだ? 少女はひどく混乱する。思わず悲鳴のような声を上げる。
「ど、ドロテアさん!!」
 声は狭い井戸のなかにわんわんと響いた。ドロテアはすこし顔をしかめ、手を伸ばして釣瓶を掴む。釣瓶を外へと引き上げた。
「特別よ。今日は私が代わりに馬と豚に水をやっといてあげるわ」
「……!!」
「一日ぐらい、あんたがいなくたって誰も気づかないわ。……じゃあね、あかずきん」
 冷たく言い放つと、ドロテアの姿が消える。少女は、パニックに陥った。
「ドロテアさん! ドロテアさん!!」
 慌てて井戸の壁にすがろうとするが、壁には苔が生えていて、指が立たない。ごつごつとした石積みも手がかりにはならない。恐慌状態に陥って、必死で石積みを登ろうとする少女の上で、ごとり、と音がした。ドロテアが井戸に木の蓋をしているのだ。
「やだ…… ドロテアさん! 行かないで! 出して! 出して!!」
 頭上から差し込む光が細くなり、最後に、ドロテアのこわばった笑顔が見えて――― 井戸の蓋が閉じられた。
 そして、後には、闇の中に、少女ひとり。





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