7


 昼過ぎから、霧のような細かな雨が降り出した。
「……ごちそうさま」
 言って、ドロテアがスプーンを置くと、母はいぶかしげな顔をする。ドロテアは昼食のテーブルから立ち上がる。食べかけのキャベツのスープ。かじりかけの黒パン。
「なんだい、残すのかい。もったいないじゃないか」
「食欲が無いの」
「もったいないぞ?」
「いいわ。お兄ちゃんが食べてよ」
 言うと、立ち上がる。食堂を出て行くドロテアの背中を、母や兄たちがいぶかしげな眼で見ていた。廊下に出ると、ドロテアは、ため息をついて立ち止まる。つっかえ棒をした庇の向こうで、色の悪い若葉が雨に濡れていた。しずくが軒から滴り落ちる。
 寒かった。ドロテアはドレスの襟を掻き合わせ、落ち着かない思いで外を見た。
「そういえば、母さん、あかずきんはどうしたんだ? 今日、豚たちが小屋の中に入れられたままになってたぞ?」
「朝から姿を見かけないのさ。どこにいったんだろう…… あの怠け者」
 母と兄たちの会話に、どきりとする。ドロテアは思わず胸を押さえた。
 あかずきん――― 少女の姿が見えないということに、だれも疑問を抱いてはいないようだった。秘密をかかえたドロテア以外には。
 ちっぽけな彼女は、いつも、馬小屋の中にうずくまっているか、さもなければ豚を連れて樫の林へと行っているか。どちらにしろ兄たちの眼に触れることは少ないし、母は彼女に冷淡だ。いなくなったからといってどうということはない。飼っている猫以下の関心しか抱かれていないだろう。家族の中で一番彼女に親切なのは、ドロテアだったくらいなのだ。
 あの子が悪いんだもの、とドロテアは心中でひっそりとつぶやいた。
 いつも親切にしてあげてるのに、あんな風にカスパールをとるんだもの。あの子が悪いの。だからちょっと思い知らせてやりたいだけ。たったそれだけのことなの。
 カスパール。暗い茶色の髪。青灰色の眼。若い木のようなまっすぐなたたずまい。涼しげな横顔。
 昔からカスパールに憧れていた。ドロテアが、ほんの少女だったころから、ずっと。
 弱いものやちいさいものに親切で、動物を殺すときには無口になってしまうようなカスパールは、だから、子供のころには気が弱く臆病だと皆に思われていたりもした。けれど、そのころから、ドロテアはカスパールが好きだった。
 何人もの兄たちに甘やかされてきたドロテアは、いかにも少女らしい少女だったから、ほかの少年たちと遊ぶことは苦手だった。少年たちは皆、子供のころから大人たちを手伝って、兎や鹿を狩ったり、重い鋤や鍬で畑を耕したりする。勢い、少年たちは皆力自慢の腕自慢で、力が強いものが一番の正義。そんな乱暴な少年たちの中で、無用の争いを嫌うカスパールは、少しばかり異分子のようなものだった。
 少女のような面差しで、力が弱いわけでもないのに喧嘩は嫌いで。そんなカスパールは、子供のころから愛らしい顔をして、甘え上手だったドロテアに対しても、ほかの者たちのような態度を取ることが無かった。甘やかしたり、機嫌を取ったりすることはなく、いつでも冷静な眼をしてまっすぐにドロテアを見た。
 髪の毛をきれいに梳って、野の花で編んだ冠を飾っても、こっちを見てはくれなかった。祭りの日に、刺繍で飾ったドレスを着ても、レースのボンネットを被っても、カスパールだけはほめてくれなかった。ほかの誰もが、愛らしい、人形のようだ、とドロテアをほめてくれたのに。
 けれど、そんなドロテアに、カスパールが声を掛けてくれたことが一回だけあった。あれは、ドロテアが可愛がっていた子牛が、チーズつくりのために殺されてしまったときだ。
 チーズを作るためには、レネット、と呼ばれる子牛の胃が必要で、だから、この村でも春先には毎年子牛を何頭も屠る。そのために殺されるのは、大人になってもあまりよい乳を出さないだろう、いい肉にならないだろうひ弱な子牛だ。その年の冬、ドロテアの家に生まれた子牛が、そんな風な子牛だった。
 弱弱しくて小さな子牛。あまり鳴いたりもせず、親の後ろを付いてあるくこともできないような子牛。
 そんな子牛が心配で、ドロテアは、よく、牛小屋を覗いていた。何もすることは出来ないけれど、ときどき、レタスの葉などをむしってきて、子牛に食べさせてやったりした。ひそかに名前をつけてもいた。いまでは、その名前も忘れてしまっているけれど。
 だから、子牛が殺されるとき、ドロテアは大声で泣き喚いた。殺しちゃいやだ、可哀想だ、と地団太を踏むドロテアに、けれど、大人たちは叱って諭すばかりだった。この子牛を殺さないと、今年はチーズが食べられないよと。
 子供たちは、子牛のスープを楽しみにしていて、ドロテアにかまってくれなかった。兄たちは甘いもので機嫌を取ろうするばかりだった。そんな中で、静かに声をかけてくれたのは、カスパールだけだったのだ。

 ―――泣いてもいいよ。
 ―――君が悲しんでくれて、あの子もきっとうれしいよ。
 
 子牛を屠らないといけないのは仕方のないことだ。ドロテアが泣き喚いてもどうにもならない。けれども、哀しいのは仕方が無いことなのだった。だから、哀しいということまで我慢しなくてもいいのだと、カスパールはそう言ってくれた。だからドロテアは安心して泣けた。あれほどあたたかい涙は、後にも先にも初めてだった。
 ……あのころには、まだ、あかずきんは、どこにもいなかったのだ。
 きっと私は、カスパールが、あかずきんにだけ親切にするのが嫌なのね。ドロテアは、ぼんやりと外をみながら思う。
 カスパールが自分に優しくしてくれないのは、かまわない。それはずっと昔からだ。一回でいいから、可愛いよ、と言ってもらいたいというのは本当だけれども。
 でも、カスパールが誰かにだけ優しくするのは嫌だ。誰かのことだけ特別扱いして、その人だけを大事にするのは嫌だ。
 カスパールは、昨日、あかずきんのためだけに、自分のための宴を抜け出した。そして、膝に乗せて頭をなで、一緒に王都まで行くか、とまで言ってやっていた。それを見ていたときの息の詰まるような気持ち。
 そこにいるのは自分ではなかった。みすぼらしくて小さなあかずきんだった。
 カスパールは、きっと、自分には、王都に来るかとも、妹にならないかとも、結婚しようとも言ってくれないだろう。もしかしたら、それは、ドロテアが幸せだからなのかもしれない。ドロテアにはちゃんと家族がいるし、住む場所もあるし、友人たちもいる。あかずきんはそうではない。あかずきんはいつでも一人ぼっちだ。
 けれど、そんなことは、ドロテアのせいではない。ドロテアは望んだって不幸にはなれない。ドロテアが幸せなのはドロテアのせいではない。
 私があの子みたいだったら、カスパールは、結婚しようって私に言ってくれるのかな。そんな風にぼんやりと思う。そうはならないだろうとも思った。どんな理由があるかは知らないが、あかずきんはいつだってカスパールの『特別』だった。もしも自分があかずきんのように天涯孤独でも、みすぼらしい暮らしをしていても、カスパールはあんなにもドロテアを思ってくれないだろう――― なんだか涙が出そうだった。
 なんであかずきんはカスパールの『特別』なんだろう。どうして私はカスパールの『特別』になれないんだろう。
 ……そんな風に思っていると、ふと、背後でドアが開いた。
「ドロテア?」
「な、何?」
 ドロテアは慌てて振りかえった。食堂から出てきたのは兄の一人だった。茶色い眼のブルーノ。ドロテアのことを、いぶかしげな顔で見る。
「なにやってんだ、こんなところで」
「なんでもないわよっ」
「飯は食わないし、こんなところでぼーっとしてるし、なんなんだよ。心配事でもあるのか?」
 心配なことがあったら俺にいえよ、とブルーノは言う。その能天気な顔を見ていると腹が立ってきた。言えるわけがないだろう。鈍感な男。
「まあ、いいけど…… とりあえず気をつけろよ、ドロテア。今日はあまり外に出ないほうがいい」
「なんで? お兄ちゃん、どこに行くの?」
「近くの川に様子を見に行くんだ」
 もしかしたら増水しているかもしれないから、とブルーノは言う。ドロテアは驚いた。
「ただの霧雨じゃない。どうしてよ」
「先週、ずいぶん雨が降っただろう」
 ブルーノはちかくの壁に掛けられていた帽子を取った。椅子に腰掛けて雨よけのブーツを履く。それを見ていて、ドロテアは、急に胸騒ぎがしはじめるのを感じる。
「今朝見たら、川がにごってたからな。もしかしたら放牧場が水浸しになっちまうかもしれない。柵でも壊れたらえらいことになるからなあ」
「……井戸も増水するかしら」
「もしかしたら、するかもな」
 何気ない様子で答えて、ブルーノはそのまま帽子を深く被る。そうして、「じゃ、気をつけろよ」と言って、廊下をまっすぐ歩いていった。
 後に残されたドロテアは、窓の外を見、ぎゅっと胸を押さえた。
 暗くて深い井戸の底。小柄なやせっぽっちのあかずきんは、肩まで水に漬かってしまっていた。井戸には蓋をしておいた。水に濁りがあるから、飲料に使っていない井戸で、また家畜に水をやる明日の朝まで、誰も蓋を開けることはない。
 早朝から、今まで、3刻は経っているだろう。たった3刻だ。たいしたことは無いと思う。けれど、胸騒ぎは収まらない。
 井戸が増水するかもしれない。
 ―――そんなことになったら、あかずきんはどうなる?
 ドロテアは、窓の外を見た。そして、唇を噛む。……手を伸ばし、壁のコート掛けにかけてある、雨よけの外套を取った。

 外に出ると、冷たい霧雨が、視界をふさいでいた。
 朝からの霧が消えきらず、薄めた乳の中を歩いているようだ。木々の陰が薄く現れては消える。井戸は家からすこし離れたところにある。
 足元で泥水がぱしゃぱしゃと音を立てた。誰の姿もない。当然、誰もあかずきんに気づいてはいないだろう。そう思うと自然に足が速くなった。
 私、そんなに悪気はなかったもの。ドロテアは心の中で必死で繰り返す。
 もしも誰かに見つかったって、あかずきんがどじをして、井戸に落ちてしまったと思うだけだろう。もともとあの井戸の釣瓶はあかずきんには重すぎる。いつ落ちたって不思議ではなかった。
 中からすくいあげたら、背中を押したとは誰にも言うなと念を押しておけばいい。気の弱いあかずきんは誰にも言うまい。
 でも、もしも、彼女がカスパールに告げ口をしたら?
 考えれば考えるほど、心臓の鼓動が早くなる。
 ただ、もしも井戸が増水して、あかずきんの足が底に届かないほどになっていたらどうしようと、そんな心配が心の中をチクチクと刺した。暗い井戸のなかにぽかりと人形のように浮かんだ少女のまぼろしが心中をよぎる。そんなバカな、と慌ててドロテアはそれを打ち消す。
 そんな簡単に死ぬわけない。まだ朝からほんの3刻しか経っていない。―――でも、あの井戸の水はずいぶんとつめたい。それに、もしも井戸の水が増えてしまっていたら?
 まもなく、大きな柳の下に、黒く濡れた石積みの影が、ぼんやりと見えてくる。
 木で組んだ釣瓶。雨に濡れた木の蓋。釣瓶は引き上げられたまま。人が来た気配は無い。
 転がるように駆け寄ると、ドロテアは、いそいで井戸の蓋を外した。
「あかずきん?」
 井戸の中へと呼びかけると、声が反響した。
 暗くて中がよく見えない。ドロテアは、痛いような動悸を感じながら、井戸の中を覗き込む。
 ―――井戸の中に、白いものが、浮かんでいる。
「え……?」
 ドロテアは、思わず、短く息を止めた。
 それは、あかずきんのいつもかぶっていた――― 古く、汚れた頭巾。
 あかずきんの姿は、どこにも、無い。
 驚愕に、緑の瞳が、裂けんばかりに見開かれた。
 ドロテアは、慌てて顔を上げる。周りを見回した。濃い霧と霧雨の白い闇。浮かび上がる木々の陰。
 蓋を開けた様子は無い。もしかしたら、誰かが気づいて引き上げてしまったのか? だが、誰かが来た様子は無かった。蓋は朝閉めたときのままで、釣瓶すら上に引き上げられたままだった。 
「あかずきん…… あかずきん!? どこなの、返事をしなさいよ!」
 ドロテアは、思わず、叫び声をあげた。声は霧に吸われて消える。速い鼓動。呼吸が耳に付く。
 さがさなければ――― ドロテアは、よろめくように足を踏み出した。
 さがして口止めをしないと。とっさに頭をよぎったのは、カスパールの青灰色の眼だった。もしも彼に知られたらどうなる? 冗談じゃない!
 その瞬間、背後で、かさり、と音がした。ドロテアは弾かれたように振り返る。
「あかずきん?」
 霧の向こうで影になった木立。その向こうから、何かがゆっくりと現れる。ドロテアは思わずほっと息をついた。
 なんだ。自力で這い出していたのか。どうやって? とにかく…… 口止めをしないと。
「あかずきん、よかった、無事だったのね」
 ドロテアは急いで声を作る。猫なで声。なんとか誤魔化さないと。必死で頭を回転させて、なにを言い聞かせるかを考える。
 だが、その思考が、停止した。
 ゆっくりと木々の陰から這い出してくる影。それが、奇妙に丈高くは無いか? やせっぽっちのあかずきんではない。ならば、なんなのだ? 奇妙に大きい。黒く濡れた体。そして。
 ドロテアは眼を見開いた。裂けんばかりに。

 それは。

 影は、音も無く、跳躍した。
 ドロテアは見た。自らの体の上に、巨大な影が覆いかぶさる。大きく開いた顎。血のような赤。白い牙。
 ―――ドロテアが絶叫するよりも早く、骨の砕ける、ごきり、という音が響いた。





 ……霧の中を掻き分けるようにして、ひとりの男が歩いてくる。
「ドロテアー? どこだー?」
 不安のにじむ声で呼びかける、それはブルーノだった。雨よけの外套。張り上げる声が霧に吸われる。ブルーノは、不安げなまなざしで、暗い森を見回した。
 霧のせいで視界が悪い。ひんやりとした空気が頬をなでる。ふと、胸騒ぎが胸によぎった。
 妹の姿が消えたのは、つい、さっきのことだった。
 食事の後、しばらくたって、雨よけの外套を被って家を出て行ってしまった妹。雨のせいで地盤がゆるんでいて危ない、と言い聞かせておいたのに。
「おおーい、ドロテアー。ドロテアー?」
 地面には、妹の靴の足跡が残っていた。足跡は裏の森のほうへとまっすぐに続いていた。なんでこんな方向へ、とブルーノは戸惑う。裏には家畜小屋、それに、家畜用の水を汲む井戸しかない。
 妹の足跡を追って、下を向いて歩いていたブルーノは、ふと、足を止める。奇妙な足跡に気づいて、顔をしかめた。
「……なんだ、これ?」
 しゃがみこみ、地面に残った足跡に、手を付いた。
 広げた手と同じほどの大きさがある――― それは、なにかの獣の足跡だ。
 爪の後。肉玉の跡。ブルーノは、胸がひやりと冷たくなるのを感じる。見たことがある。この獣の足跡。だが、異様なほどに大きい。こんな大きな足跡など、あるはずがない。だが、これは、もしや……
「狼……?」
 つぶやいた瞬間、ぼたり、と頭に何かが落ちた。
 生暖かい液体。雨ではない。なんだろう? 頭上を見上げる。そして男は、奇妙なものを見た。
 頭上の木の枝に、なにか、白っぽいものが、引っかかっている。白くて赤く、そして黒い。
 黒いものは、髪の毛だろうか。白いものはなんだろう。そして、赤いものは?
 ぶらぶらと、何かがゆれていた。ぼた、ぼた、とまた液体が落ちた。顔に滴り落ちる。手で拭い取り、その手を見たブルーノは、目をまたたいた。黒い。―――いや、赤黒い。

 血。

 ブルーノの目が、ゆっくりと、見開かれていく。口が大きく開かれていく。ゆっくりとゆれていた何かが、重さに耐えかねたように、ぼたりと落ちた。
 それは、血にまみれた、白い、女の腕だった。
 ブルーノはすさまじい声で絶叫する。
 ドロテアの、血の気を失った白い顔が、ぼんやりと眼を見開いたまま、樹上で、雨に打たれていた。
 




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