4.丸藤翔のクリスマス


 ―――兄は、幸せなクリスマスを、大事な誰かと過ごせているのか。
 それだけが、翔の、唯一の気がかりだった。

 あのころ翔は、いつも、どこにでもいる普通の子どものようにクリスマスを過ごしていた。友だちの家で開かれるパーティ。晩御飯にはケーキがあって、ちょっとしたご馳走があって、それから、わくわくしながら布団に入ると、翌朝には枕元においておいた靴下の中のプレゼント。あたりまえの、どこにでもある、しあわせなクリスマス。
 ……ただひとつの気がかりを除けば。
「しょーう、どうしたんだ?」
 部屋の熱気に当てられて、ぼんやりとベランダにたたずんでいると、ふと、うしろからひょいと顔を出す気配がする。振り返るまでも無かった。十代だった。ぴょこんと飛び出してきて隣に座った十代は、オレンジジュースのコップを翔に手渡して、「食いすぎか?」と首をかしげる。翔は苦笑してしまう。
「もう、アニキじゃないんだから。違うよ」
「へー、もったいない。どうせだったら腹が痛くなるくらい食ったほうがいいぜ!」
 ほら、と笑顔で差し出すのは、ピザだった。とにかくこの人の行動パターンは単純で困る。苦笑しながら受け取って、けれど、ひとくち食べてみるとバジルの乗ったピザはやっぱり美味しかった。となりでもぐもぐと鶏のからあげを食べながら、十代は、ごくなにげない風に言う。
「カイザーとかさー、どうしてるのかなー。あとエドとかさ」
 あいつらプロだもんなあ、年末は忙しいよなあ、と何気なく言う。ちくりと胸が痛んだ。
「……アニキ」
「でもさ、人にサービスしてさ、喜んでもらえるのがいちばん嬉しいってエドが言ってた。そういうカードが来たって話だけど」
「カードって、クリスマスカード? エドから?」
「うん。E−MAILのだけどさ、おれがエドとあと斎王に送ったからだと思う。なんかむちゃくちゃ忙しいみたいなこと書いてあったぜ」
 今は療養の身である彼の兄のような存在と、それと、彼らよりもさらに若い頃から一人前のプロとして働いてきた彼と。彼らにはやっぱり家族と過ごす平和なクリスマスなんてなかったんだろう。それどころか彼らには、"家族"すらなかったのだ、と気づいて、翔はまたちくんと胸が痛むのを感じる。
 ちくん、ちくん、ちくん。
 ―――胸の痛みは誰のせいでもない、ばかで、わがままで、子どもだった昔の自分のせいだ。
 翔は、眼を上げる。側を見る。十代も振りかえった。とび色の眼。
 翔は、口ごもりながら、言った。
「あのさアニキ、あんまり面白くない話なんだけどさ…… 聞いてくれないかな」
「うん? なんだ?」
 ―――昔の話。まだ、翔が、弱虫のちいさな子どもだったころの話。
「ボクさ、クリスマスのころね、ちょっと憂鬱だったんっすよ、いつも」
「……」
 十代の眼が、静かになる。翔を黙って見つめた。
「そりゃ、ボクには楽しいことがいっぱいあったっすよ。友だちとクリスマス会もあったし、サンタさんも来てくれたし、ケーキたべて、ご馳走食べて、ほかにもいっぱい……」
 でも、と翔はつぶやく。
「……でもあのころって、父さんと母さんが、ほんとは誰のことをいちばんに考えてるのかってことを思い知らされる気がして、嫌だったんっす」
 彼らの家族にとって、《いちばんのこども》は、いつであっても翔ではなかった。―――兄の、亮のほうだった。
 まだ子どもの頃から、資質と、本人の意思を見出されて、親元を離れて暮らしていた亮。当たり前の人間だった両親は、優秀な息子を誇りに思っていたけれど、同時に、同じくらいに気遣ってもいた。クリスマスになっても家に帰ってこない。親元を離れて一足とびに大人になり、逢うたびに大人びて自立していく亮。誇らしいと同時に、親らしい振る舞いをしてやれない、という引け目を感じさせる亮。
「クリスマス前になると、父さんも母さんも、どうやったらお兄さんがいちばん喜んでくれるかって考えてて。帰ってこないかって手紙を出したり、どんなプレゼントがいいか一生懸命悩んだり。……ボクには、そんな風に一生懸命になってくれないなって、ずっと思ってたんっすよ」
 お兄さんが《いちばんのこども》で、自分は、そうじゃない。
 ―――痛いほどそれを思い知らされるから、翔は、クリスマスがそんなに好きじゃなかった。
 けれど、それは…… 本当はコインの一面に過ぎない。
 翔は顔を上げる。むりやりに笑った。さもないと、なんだか、涙が出そうだった。
「でも、それって半分だけなんっすよね。ほんとは、なにもかも持ってたのって、ボクのほうだったんだって、今になってやっと気づいて」
「……翔」
「お兄さんには、プレゼントも、ケーキも、ツリーも、なんにもなかった。父さんと母さんといっしょに過ごすこともなかったんっすよね。ボクがベットの中でサンタがくるのを楽しみにしてたときも、お兄さんには、なんにもなかった」
 たしかに翔は、《いちばんのこども》ではなかったかもしれない。……けれど、なにもかもをあたえられていたのは、亮のほうではなかったのだ。
 自ら望んで離れていったぬくもりを、後悔するような兄ではない。それは翔にも分かっていた。
 けれど、今、痛切に思う。兄はあの日のささやかな幸せを知らない。ケーキを買って帰る道で、イルミネーションを見上げる喜びを。友人たちとはしゃぎあってささやかなクリスマスをすごす幸せも、そして、明日の朝の幸福を思って眠りに付くやすらかな充実も。
 全部を持っていたのに、それでも、まだ兄を羨んでいた。遠く離れてひとりで暮らしている兄が、せめて、ちょっとでも幸せでいてくれるように願う心の余裕すらもっていなかった。
 こどもだったのだ、しかたがない……
 けれど、まだ胸がちくちくと痛む。ひいらぎの葉がいちまい、服の中にまぎれこんでしまったような、そんな痛み。
 十代は、しばらく、そんな翔を見ていた。やがて表情がやわらかく緩む。微笑む。ぽん、と、翔の髪に手が置かれる。それから言った声は、なんだかひどくそらぞらしくて、そして、優しかった。
「ああっ、たいへんなこと忘れてた!」
「……え?」
「エドからのメールに追記があったんだよ。カイザーから!」
 お前に、メリークリスマス、って。
 ―――何も考えなくても、そんなのは嘘だと、すぐに分かった。
「アニキ、へんな慰め方、しないでよ……」
「そんなことないぜ。だって、カイザーだったら、きっとそういうぜ?」
 翔は、怒ろうとした。なのに、十代の顔を見ると、気持ちが溶けてしまう。
「カイザーはさ、お前のこと大好きだぜ。だから何にも怒ってない。それよかさ、翔が幸せに、楽しくクリスマスを送れてるって思ったほうが、きっとカイザーだって楽しくいられたぜ?」
「……そんなの、ただの言い訳っすよ」
「そうかなあ」
 そらとぼける十代をみて、けれど、気持ちの中で、何かがやわらかく解けていく。あたたかな紅茶に、角砂糖をひとつぶ落としたみたいに。
「あとでさ、写真とって、エドに送ろう。カイザーにも送ってくれよって頼んでさ」
 十代の笑顔はやさしい。その、とび色の眼。シナモン入りの甘い紅茶のような、あたたかい色。
 翔はうつむき、迷い、それから、顔を上げる。心細くつぶやく。
「……お兄さん、喜んでくれるっすかね」
 十代は、満面の笑みで答える。
「もっちろん!」
 ―――《いちばんのこども》である兄が、ずっとうらやましかった。けれど、その気持ちのどこかに別のものが混じっていた。《いちばん》なんかであるよりも、傍にいて、おんなじ幸せ、おんなじささやかな日常を生きて欲しかったという気持ち。
「翔、カイザーのこと大好きだもんな。そりゃ、大好きな人には、しあわせにしててほしいって思うもんだぜ。ぜんぜんおかしくなんてない」
「―――アニキって、なんていうか、のんきすぎるっすよね」
「悪いことじゃないだろ? だって、クリスマスだもんな!」
 笑顔で答える、そんな十代のうれしそうな声に、心の中のとげとげしたものが、解ける。
 ……十代はまるで、あったかくて甘い紅茶みたいに、やさしい。
「アニキ、その……」
「んん?」
 首をかしげる十代に、何を言えばいいのかわからなくなる。ありがとうじゃない。大好きでもない。言葉をみつけそこなって、けっきょく翔は、ちょっと恥かしそうに口にする。
「その、メリークリスマス」
「ん。メリークリスマス!」
 ……答える十代の表情は、やっぱり、満面の笑顔だった。



 
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