5.天上院明日香のクリスマス
子どもの頃のクリスマスの過ごしかたを思い出す。たしか、まだちいさかったころは、教会のミサに行っていた。古くから近所にあったあまり大きくない教会。老シスターたちと近くに暮らしている信徒たち。近所にあるキリスト教主義の学校の生徒たちと、それから、福祉施設の人たち。
兄は子どもの頃からピアノが上手だったから、パーティの時には何曲も伴奏を弾いていた。それは明日香がもうちょっと大きくなってからあちこちで聞くようなクリスマス・ソングではなく、れっきとした賛美歌ばかりだった。降誕曲や受難曲、そして賛讃。兄の長くうつくしい指が鍵盤にすべる様を明日香はなにも考えずに感嘆の念だけで見つめていたが、今思い出すと、そこで奏でられた物語は、世間で言われる"クリスマス"のイメージにあうような、ただ、楽しげな祝祭ムードに溢れたものだとは言いがたい。
「へーえ、ヨハンくん、児童合唱やってたこともあるの」
「ええ。アカデミアに入るからやめたんですけど、ソロパートを任されてたこともありましたよ。歌劇にも出たし」
「なるほどなぁー。声がよく通るから、素人じゃないだろうなあって思ってたけど、そこまで本格的とはねぇ!」
いちばん広い部屋を借りたら、そこにピアノがあったのはたまたまだ。けれど、兄はヨハンと話があって、なにやらそこでもりあがっている様子。「全部わすれちゃったよー」と嘆きながらも指はなめらかに鍵盤をすべり、どこかしら悲痛な風を含んだ旋律を奏で出す。ヨハンが眼をまたたく。
「あれ、それって賛美歌136番……」
「知ってるんだ! やっぱりねえ、クリスマスの受難劇だと、これがクライマックスだったからねえ」
流れ出す旋律は澄んで美しく、ヨハンが、張りのあるアルトを嬉しそうに唱和させる。だが、その音色は晴れやかというよりも哀しげで痛々しいイメージのほうが強い。座ってフルーツを食べていたレイが、眼をまたたく。
「きれいな曲……」
「そうね」
「吹雪先輩、ピアノが弾けたんですね。それにヨハンさんもすごく上手」
「……」
歌詞は、おそらくドイツ語だろう。賛美歌というよりも、《マタイ受難曲》の一部としてのほうが有名なコラール。聞いても歌詞は理解できない。だが、明日香には分かる気がした。むしろ、頭の中に残っている対訳の歌詞が、記憶の奥底から、ちいさな泡がうかびあがるように浮かんでくるといったほうがいい。
主の苦しみは我がためなり
我は死ぬべき罪人なり
かかる我が身に代わりましし
主の御心はいとかしこし
祖母が信仰を持っていたとしても、明日香自身はキリスト教徒ではない。吹雪だってそうだろう。だが、少なくとも吹雪は、洗礼を受けていないにしても、神にたいする尊敬と親愛の念を持っている… と明日香は思う。
不可解でならない。兄は、神を信じ、神がこの世界をただ愛しているがために作った、と信じられるような生き方をしてはいない。少なくとも明日香にはそうとしか思えない。
―――その証拠に、ここに、吹雪が最も愛していた人々の姿は、無い。
兄が語らないから、詳しく知っているわけではない。けれど、アカデミアに入学したそのときには、少なくとも兄には、二人の最愛の親友がいた。
その一人は、明日香にとっても兄のように慕わしい存在だった丸藤亮だ。もう一人については詳しくは知らない。兄が語らないからだ。けれど、今は二人は兄の側に無い。そしておそらくは、兄にとって納得ずくの、祝福して送り出すことができるようなやり方で去っていたのですらない。
一番大切な人を、理不尽なやりかたで失って、恨み憎む、というやり方とまではいかないにしろ――― 神に対して疑問を問いかけない理由が明日香には分からなかった。
少なくとも明日香は、もしも神に出会えるのなら、たったひとつであっても問いかけたい。亮についてだけであっても。神様、なんで亮があんな苦しい思いをしているのですか。苦しくて哀しい思いをさせるために亮に才能を与えたのですか。……どのような答えが返ってくるのか、その答え如何によっては、神を呪わないでいることができる自信が、明日香には、無い。
あるいは、自分がただ甘えた性格だからそう思うのだろうか。運命というものをうらむのは弱い人間のやることなんだろうか。明日香には、どうしても答えが分からなかった。
「なんだか浮かない顔だねえ、わが妹よ!」
明日香が黙り込んでいるのに気づいたのか、あらぬ方向から声がした。やっと我に帰る。あわてて顔を上げると、ピアノの前に座った吹雪が、にこにことこちらを振り返っている。
「な、なんでもないわよ」
「あんたの兄さん、上手だなあ!」
ヨハンが、にこにこと嬉しそうに笑っている。横を向いて手を振る方向を見ると十代がいた。複雑な気持ち。明日香が黙り込んでいると、吹雪が、しゃれっ気たっぷりの口調で、「何か憶えてるのはないかい?」と言った。
「え…… ええ?」
「ひさしぶりにお前の歌が聞きたいなあ。なんでもいいよ。憶えている曲があったらいってごらん。弾いてあげようじゃないか」
「なんでそうなるのよ、兄さん!」
「クリスマスだもの」
理由になっているのかなっていないのか。まるでわからない。だが、明日香のくしゃくしゃともつれた気持ちに気づいてか気づかなくてか、吹雪は笑っている。その名の通りのうつくしい白皙に、ただ、屈託の無い喜びの色を浮かべて。
「妹よ、クリスマスは神さまが僕たちにこの世界をプレゼントしてくれた記念の日さ。もっと喜ばなきゃダメだよ!」
「……プレゼント、って」
「愛も友情も、努力も勝利も、……その逆の全ても、神さまからのプレゼントさ。すばらしいじゃないか!」
芝居めかした口調。ヨハンが、レイが、やれやれと苦笑している。けれど明日香は、何か、どきりとした。心のうちを兄に見抜かれたような気がした。
愛も友情も、努力も勝利も。
……哀しみも別れも、挫折も敗北も、すべてが、神のくれたもの。
それすらも、生きることの喜びであるということ。
「―――兄さん」
「これだったら、憶えてるんじゃないかな」
明日香の思いも知らぬげに、吹雪の指がふたたび、鮮やかな滑らかさですべりだす。かなでだす音色。「おっ」とヨハンが声を上げる。
「なつかしいなぁ! ……でも、クリスマスにそれ?」
「なんだか好きなんだ。まあ、いいじゃないか」
ほら、明日香、と兄が笑う。明日香は少し笑って、そして、笑っている自分に気づいて驚いた。
立ち上がる。思い出す。おぼつかない声で、歌いだす。
神と共にいまして 行く路を護り
天の御糧持て 力を与えませ
兄が、嬉しそうにピアノを奏でる。ヨハンがやれやれという顔で声を合わせる。レイが好奇心を眼に輝かせて、「なんですか、それ!」と立ち上がった。
「コーラス部分は一緒よ。聞きながら合わせればいいわ」
「わあ…… いいんですか?」
「ええ」
兄が何を思ってこの曲を選んだのか明日香は理解しない。けれど、今日は、今日という日は、神さまというものがいるとしたら、感謝することにしよう、と思った。
兄がピアノを弾いていて、歌の上手い留学生である仲間が声を合わせていて、慕ってくれる後輩がつたなく歌声でおいかけようとして、そして、大好きな仲間たちが眼を丸くし、あるいはおもしろそうにそれを眺めている。
この日があってくれたのが神さまのおかげだったとしたら、感謝をしてもいい。―――感謝を、したい。
また逢う日まで
また逢う日まで
神の護り 汝が身を離れざれ
明日香は歌う。―――そうして、妹の歌声を聞く吹雪の眼には、曇りの無い、喜びの色が浮かんでいた。
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