/3



 ―――何事もなく、日々は過ぎた。
 授業が行われ、デュエルが行われ、ほかの時間にはそれぞれにお喋りやスポーツ、読書などの趣味に時間を使う。そうやって何事もなく日々が続く。例外はひとつもなかった。ヨハンどころか、十代ですら、例外ではない。
 授業が終わって荷物をまとめていると、奥の扉が勢いよく開けられる。ヨハンが文房具をバックに突っ込みながら振り返ると、赤いジャケットの十代が、転がるように駆け下ってくるところだ。ヨハンのいるテーブルにたどり着くと、身を乗り出して、「なぁなぁヨハン、放課後暇!?」という。
「え? 暇だぜ。なんだ?」
「あのさぁ万丈目がな、すっげーレアモノのDVDを仕入れたんだってさ! 初期デュエルの記録フィルム!」
「初期? 初期ってどれくらいなんだ?」
「ペガサス島だってさぁー! オレも対戦図は見たことあるけど、実物はなくってさ。見たいだろ、城之内克也のデュエル」
「ええ、マジか!?」
「うん。ほら、吹雪さんもレッドアイズ使いだろ。もりあがっちゃってさ、吹雪さんの部屋で見ようっていう話になってんだけど、来るだろ?」
 うん行く絶対いく、とヨハンは言おうとした。だが、そこに後ろからぬっと誰かが顔を突っ込んでくる。特徴的な訛りのある声で、「駄目なノーネ」と言った。
 背の高い、白粉の濃い男。この学校において、見てわからない人など誰もいないだろう。
「「クロノス先生!?」」と、二人の声が唱和した。
 ぎょっとしたように腰の引けている二人を見て、満足げにニンマリと笑う。彼、クロノスは、ピンと指を立てた。
「な、なんだよぉ〜、おれ、補修科目は全部終わらせたぜ!?」
「ドロップアウトボーイには、確かに補修と言ってあげたいところなノーネ。でも、今日の用事は違うノーネ」
「は、はあ?」
「校長先生がお呼びなノーネ。本土からオーナーが視察に来ているから、留学生の皆、それに、ドロップアウトボーイに面会することを希望されているノーネ」
 オーナー、の一言に、ヨハンはぎょっとした。アカデミアに出資している企業や団体は複数ある。だが、一般に”オーナー”と呼ばれるのは、ただ一人だけ。
 KCの若き総帥…… 海馬瀬人。
 思わず、ヨハンも十代も、顔を見合わせる。なんと言ったらいいのかわからない、という顔。あたりまえだろう。海馬瀬人というと、デュエルをやる人間にとっては生きた伝説のような人物だ。そして、その気性のすさまじいまでの激しさでも同じくらいに知られているというのだから、実物を見てみたくっても、できればスタジアムと観客席という程度の距離は開けておきたいというのが素直な気持ち。
 だが。
 そんな二人の顔を見て、満足したのだろう。にやりと笑うと、クロノスはピンと指を立てた。
「ただし、今回おいでになったのは、正確にはオーナーの代理の方なノーネ。オーナーは大変忙しくていらっしゃるから、いちいちこんな絶海の孤島になんて来られないノーネ」
「あ、そ、そうなんだ……」
 ほっとしたように胸をなでおろすヨハンと十代。だが、その次の瞬間の反応は、二人ながら、まったく違ったものだった。
「今回アカデミアにいらっしゃったのは、KCの副社長様…… つまり、海馬瀬人様の弟君、海馬モクバ様なノーネ」
「……モクバさんが!?」
 十代が、驚いたように、声を上げる。
 クロノスは怪訝そうな顔をした。呆然としている十代を見る。
「”さん”? ……ドロップアウトボーイ、アナタはモクバ様をご存知なノーネ?」
「……」
 十代は答えない。ただ、顔の上をさまざまな表情の色がよぎった。戸惑いや、驚きや、途方にくれたような色、ほかにもさまざまなものが。
「おい、十代、大丈夫か?」
 ヨハンはおもわず十代の肩をたたく。けれど、十代は、満足な返事を返さなかった。

 







 
 
 ジムやアモン、オブライエンに伴われて応接室へと入ったとき、四人を出迎えたのは、想像していたよりもずっと気さくな、「よう、はじめまして」という声だった。
 ―――オーナーの趣味に沿って、白と青を中心にまとめられた、シックというよりも瀟洒で優雅な印象の部屋。ガラステーブルと灰色の木材を使った調度。大きな窓からはアカデミアのある南国の島のうつくしさが一望できる。そこのソファの上座に座っていたのは、一人の青年だった。想像していたよりもずっと若い。
 せいぜいが、20代も頭、というところだろうか。
 長い黒髪を首の後ろで結わえていた。細身のパンツに灰水色のジャケットを合わせ、ワイシャツは白く、タイは細い。ボタンをひとつふたつはずし、ラフな感じに結んだタイが、逆に堅苦しくない程度の品のよさを感じさせる。面差しだけをみれば兄である海馬瀬人によく似ていた。怜悧で貴族的な印象の目元と、カットした宝石のように美しく硬質な輪郭。だが、黒目がちな目のせいか、印象はいくらか柔らかで温和な風に見えた。
 ―――これが海馬モクバか、とヨハンは思う。
 兄と違って裏方に徹し、めったにメディアに露出することがない。まだ大学生だという身分のせいもあるだろう。けれど、その自信にあふれた黒瞳を見れば、とうてい、ただの青年であるだけとは思えなかった。
 彼はひらひらと手を振って、「緊張しないでくれよ」と笑った。
「オレはちょっとした用事帰りに寄っただけなんだぜ。今回は査察とかそういうもんじゃ、ぜんぜんない」
「ええ。モクバ殿は最近、アカデミアでデュエルを学ぶみなさんにずいぶんと興味をお持ちのようでね。それで話が聞きたくて、君たちを呼ばせていただいたのだよ」
 同じくソファに座っていた鮫島校長が、そういって四人を招く。最初に歩み出たのはアモンだった。
「お初にお目にかかります。私の名は、アモン・ガラム。イースト校からの招致留学生として、今、このデュエルアカデミアにて学ばせていただいております」
「聞いたことがある。雲デッキのアモン、だったよな? とても実力のあるデュエリストだと聞いているよ。会えて光栄だぜ」
 モクバは笑顔で手を差し出す。アモンがめずらしくも驚いたような色を見せたのは、偶然ではないだろう、とヨハンは思った。
 同じように企業トップに立つものとして、アモンについてなら、”ガラム財閥の”という言葉のほうが先に出て不思議はない。むしろ、そちらのほうが普通なくらいだろう。だがモクバはあえてアモンのことを”雲デッキの”と呼んだのだ。
 ヒュウ、と口笛が聞こえたところを見ると、おそらく、ジムも同じことを考えたのだろう。次に前に歩みだすと、どこか挑むような笑顔で片手を差し出す。
「オレはジム・クロコダイル・クック。こっちは家族のカレン。サウス校から来たぜ」
「……オースチン・オブライエンだ」
 それぞれの留学生たちが思い思いに自己紹介をするのを、モクバ、と呼ばれた青年はにこにこと笑顔で聞いていた。そうして最後にヨハンのほうへと目をやる。ヨハンはあわてて前へと歩み出た。
「ノース校からきた、ヨハン・アンデルセンです」
「宝玉獣デッキのヨハンだよな? 噂は聞いているよ。こうやって直接に話せてうれしいぜ」
 青年は手を差し出す。ヨハンはその手と握手を交わす。見た目よりも大きな手だった。長く細い指がうつくしかった。
 本人が言うとおり、青年には、アカデミアにいる生徒たちに対してなんらかの評価を下すという意図はまったくなかったらしい。それぞれの留学生たちにアカデミアでの生活についてを聞き、取り寄せられていた資料から、校内で行われているデュエルについての詳細を調べ、いちいち感心したように首を振っていた。最後にはデッキの中身を見せろとまで言い出して、鮫島校長を苦笑させる。エースデッキの中身は基本的には人に見せるようなものではない。それでも二人きりならよかろうということになり、応接間の隣の小さな部屋で、それぞれ、留学生たちがデッキの中身を見せるということになる。
 第二応接間は、第一応接間と同じくらいに瀟洒で上品なインテリアをほどこされているが、大きなガラスのテーブルは、早々に部屋の隅っこへとおいやられてしまった。40枚のカードを床にきれいに展開させるためだ。自分の番になって入ってきたヨハンは、青年に求められるとおりに、デッキ・サブデッキの中身を分類ごとに床に並べる。モンスターカードや罠カード、魔法カードやフィールド魔法。
「なるほどなあ、これが宝玉獣か……」
 ヨハンがきれいに並べたカードを見て、モクバは感嘆の声を上げる。モンスターカードの枚数はもとより少ない。だが、デッキから宝玉獣を引き出すための補助カードは山のようにある。壁用に入れてあるモンスターもいるがごく少数。宝石トークンが残るという特性を使いこなし、攻撃力の低さを補うというのが、ヨハンの戦術だったからだ。
「見たことがなかったんですか?」
「そりゃあ、そうだぜ。宝玉獣カードはいまのところ、お前が持ってるやつしかないからな。似たような性格のカードはあるにはあるけど……」
 こうやって、ああやって、デッキの回転をスピードを上げるのか、なるほど、とモクバはしきりに感心する。感嘆のため息が漏れた。そこまでほめられるとうれしいがなにやら照れくさい。どんな顔をしたものかといささか妙な顔になっているヨハンの耳に、けれど、次の瞬間、思いも寄らない台詞が飛び込んでくる。
「―――なるほど、十代が面白がるわけだ」
「!?」
 十代が、だと?
 ばっ、と顔を上げてまじまじと顔を見る。青年はたじろぐこともなく、にっこりと笑って返してきた。











「十代とは、そうだなぁ、昔馴染み。ひょんなことで知り合ってから、年下の親戚みたいな感じでかわいがってきたかな。いいやつだろ、十代は」
 鮫島校長たちにも解放され、ほかの留学生たちも帰り、ヨハンとモクバの二人は、二人でアカデミアの屋上へと上がった。数日来の霧が晴れ、今日はうつくしい青空だ。遠く、かお、かお、と鳴きながら、海鳥が羽をまぶしい白に光らせながら、行き会っている。
「意外だったか?」
「ええ……」
「でも、オレは特別なことはなんにもしていないぜ。していない、っていうより…… できてないかな」
 モクバの声に自嘲がにじんだ。驚いたヨハンが振り返ると、モクバは、指を組んで手すりによりかかっていた。
 かすかな海風に、髪がなびく。あまり落ち着きがよくない黒髪は、首の後ろで結わえていても、あちこちが奔放に跳ねて、かすかな風に揺れていた。
「オレはたしかに十代の友達だけど、年が離れすぎてるだろ。今は18と20いくつ…… でも、初めて会ったときには、十代は小学校に入ったばっかりで、オレは中学生だった。なにかをしてやるにはオレは子ども過ぎたし、十代だって自分からオレに頼れるくらい大きくなってなかった」
「……」
 どう返事をすればいいのかわからない。黙り込むヨハンに、モクバが少し笑う。目が細くなる笑い方は、妙に人懐っこい感じがした。それだけは兄には少しも似ていないのだな、とぼんやりと思う。
「それでも、よく手紙のやり取りをしたり、見せてやりたいものは見せてやりたいって思ってたぜ。今だってそうだ。だから……」
 十代に会いたかったんだけどなあ、とモクバはぼやく。
「呼んでもらったはずだけど、来てくれなかったんだよな。どうしたんだろう? 反抗期かなあ」
「……違う、と思います」
 ヨハンは搾り出すようにつぶやく。モクバが振り返る。ヨハンの手は、関節が白くなるほど硬く、手すりを握り締めていた。
 どうしたというのか。怪訝そうな顔をするモクバに、ヨハンがかすれた声で言う。
「鍵を知りませんか? ……その、銀でできた。ちいさな青い石のついた……」
 モクバは眉を寄せた。
「それは…… もしかして、文箱の鍵か?」
「文箱……」
「中学にあがるときに、オレが十代にそういうものをやった記憶がある」
 これくらいの箱で、とモクバが手で示す。けっこうなサイズ。素材は硬い木でできていて、さして目立つ装飾が施されているわけではない。だが、内側には手が込んでいて、ものが痛まないように天鵞布のうちばりがされており、普通のやり方ではあけられない、手の込んだつくりの鍵がついていた、という。
 ヨハンは、そんなものなど、見たこともなかった。
「今は何が入っているのかな…… オレが贈ったものはたいてい入れてるって聞いたことがあるぜ。あの中に入れておけば、誰にも見つからないですむからな」
「見つからない、ですか」
「んー」
 モクバは困った顔でがりがりと頭を掻く。ただでさえ跳ねている髪がますます跳ねる。
「―――オレの口から話すことじゃないから、あんまり詳しくはいえないぜ。ごめん」
 口ごもるモクバに、けれどヨハンは、なんとなく、さまざまなことが推測できるような気がした。
 十代は中学生のころから家を出て一人暮らしをしている、と聞いたことがあった。中学で全寮制の学校に入り、さらに受験をしてアカデミアへとやってきた。そしてその間…… すくなくともアカデミアに入ってからは、一度も家に帰っていない。そうして十代は、自分の両親について問われたときは、《すごくいいかーさんととーさんだよ》と笑うだけで、それ以上のことは決して口にしない。
 アカデミアは、扱いとしては私立高校にあたる。しかも絶海の孤島の全寮制学校だ。当然のように学費は非常に高い。オベリスククラスの生徒なら奨学金制度も充実している。だが、入学しようと思うのは、そもそもがそれなりに恵まれた家庭の子女でなければ無理だという部分は確実にある。
 そういうきちんとした家に生まれて、よい両親に恵まれて、と十代は言う。―――けれどそういう両親が、なんの理由もなく、まだ10代の息子と音信普通になって平気なものなのだろうか?
 考え込んでいるヨハンをどう思ったのだろう。モクバはなんでもないことのように話題を変えた。
「そういや、お前のことだけどさ、ヨハン。最近、十代から届く手紙には、お前のことばっかり書いてあったからさ、どんなヤツか気になってたんだ」
「十代が、オレのことを?」
「ああ」
 文通をしているんだ、とモクバは笑う。目が線になってしまう笑顔。
「いまどき文通なんて古いだろ。でも、十代は字が下手だし、日本語をよく知らないからなあ。手紙を書いてれば少しはましになるかと思って、約束したんだ。アカデミアにあがるときに万年筆と辞書を渡して、これからは、これでオレに手紙を書いてくれ、ってな」
 ただしデュエルのこと以外っていう制限つきで、とモクバは言う。ヨハンは困惑した。
「なんで、ですか?」
「そりゃあ、デュエルのことを書いてもいいっていったら、十代の手紙は全文デュエルレポートになっちまうからだぜ」
 モクバは可笑しそうに笑った。……その笑顔がふと柔らかくなる。「それに」と付け加えた。
「オレは十代に、デュエルの外の世界のことも、たくさん、たくさん学んでほしかったからさ」
 ヨハンは黙り込む。ただ、手すりに置いた自分の手を、じっと見下ろした。
 そんなヨハンを見るモクバの目は優しい。やがて視線が遠くへと向けられ、遠くに見える海に目を細めた。
「最近の手紙は、……そうだな、風や空のことばかり」

 風や、空の。

「春になればハルジオンが咲いたとか、雲がとても早かったとか、風のにおいは朝と夕で違うとか。……そんなこと、ここ二年の手紙だとぜんぜんかかれていなかったんだぜ? 十代にそういう話をしてるのって、お前だろ、ヨハン」
 モクバは笑う。目を細めて。
「花や樹のこと、雨の降るときの音のことだとか、星座や月のかたち、日に透かせた虫の羽、やわらかい春の雪、水にひたす手のひら…… そういうことが書いてあるんだ」
 お前がおしえてくれたんだろう? とモクバは言う。ヨハンは、何も、何も、いえなかった。言わなかった。
 風や空のこと。花や樹のこと。雨が降るときの唄や、星座や月の話。
 どれも、どれも、ヨハンが十代にだけ話してきたこと、ばかりだった。
 ―――別に、十代だけへの秘密にしたいわけじゃなかった。
 ただ、あまりにたわいのない、ささいなことばかりで、話したところで、誰も一緒に喜んではくれないものばかりだった。夕暮れがうつくしくてどこまでも駆けていきたくなるような気持ちや、形を変えていく雲が面白くて、日がな草の上に寝転がっているような気持ち。降ってくる雪の結晶のかたち、そのひとつひとつのあまりに精巧な違いに驚いて、指先がこごえるまで冷たい空気の中に立ち続ける気持ち。ヨハンはそんな気持ちを捨てたいと思ったことは一度もなかったが、誰かに理解してもらえると思ったこともなかった。
 十代に会うまでは。
 十代は、ヨハンが見つけるそんなささいなものたちを、まるで宝物のように、目を輝かせて、受け取ってくれた。夜の灯りにあつまる白い蛾と、それを捕まえるためにやってくるヤモリの狩を、一緒に息を詰めて、何時間でも眺めていてくれた。万丈目やオブライエンなんかは、まるで小学生みたいだとあきれ返る。でも、かまわなかった。ヨハンはうれしかったのだ。自分にとって宝物に見えるものを、十代もまた、宝物として受け取ってくれることが。
 うれしかった―――
 ほんとうに、そうなんだろうか?
 自分は気づいていたんだろうか。十代が、ヨハンの手渡すひとつひとつのものたちを、本当に宝物だと思って、大切にしてくれていたということについてを。もしかしたらヨハン以上のみずみずしさと新鮮さを持って世界を眺めてたんだということが、本当にわかっていたんだろうか。
 黙りこむヨハンの横顔を見るモクバの目は、兄のように優しかった。
「碧の……」
「え」
「碧の目を、してるんだな。十代の言うとおりだ」
 モクバは、くすくすと笑う。
「《ヨハンがあんなにたくさんのものが見えるのは、目が碧色をしているせいで、サングラスをかけたみたいにほかの色のついた世界を見ているからじゃないか》って、十代が手紙に書いてたんだぜ?」
 ヨハンは目をみはり、まっすぐにモクバを見る。それからしばらく黙り込み、そして、問いかける。
「その手紙は、万年筆で、書いてあったんですか」
「ん? ……そうだぜ?」
「じゃあ、その万年筆は、鍵のかかる箱の中に……?」
 モクバは一瞬首をかしげた。けれど、すぐにうなずく。
「ああ、そうだとおもうぜ」
 ヨハンは一瞬、目を閉じた。目の奥が針でつらぬかれたような鋭い痛み。ヨハンは、ぐっと奥歯をかみ締めた。

 十代が隠していたもの。
 決して誰にも見せなかったもの。手を傷だらけにしてまでも鍵を探し、取り戻したかったもの。
 その正体は、これだったのだ。

 ―――ささやかで、くだらない、いとおしい日常。

 ヨハンは、手すりを硬く握り締めた。痛いほどに硬く。
「……十代がモクバさんに会いたがらない理由、たぶん、わかります」
「えっ?」
「十代は、鍵、を無くしてしまったんです。モクバさんからもらった文箱の鍵を」
 モクバは黙り込む。その黒瞳がじっとヨハンを見た。ヨハンは続きを言わざるを得なかった。言葉はまるで針を吐くように喉を突いて鋭く痛んだ。
「オレが、隠しました」
 ばかみたいだ。
 言った瞬間、涙が流れそうになった。
 これは嫉妬だったのだ、とようやく理解した。十代が自分に見せないものをもっているということへの嫉妬。けれど、なんてごうまんな嫉妬だったのだろう。それは、十代は自分のすべてをヨハンに見せてくれて、まるで隠すところがないと信じていたということなのだから。
 十代には鍵が要らない、と信じていた。
 ほんとうは何一つとして知りはしないくせに、傲慢にも、十代は自分にすべてを見せてくれると、見せてくれるものが十代のすべてだと、信じていた。
 だが、そんな自負がなんの役に立つだろう? 吹いてすぐに割れてしまうシャボン玉ほどの価値もない。自分は自分の持っている中で一番いいものを十代に見せたけれど、それは、十代もまた持っている一番よいものを見せてくれるだろうという愚かな思い込みにつながるものに過ぎなかった。
 ―――なぜ、鍵を隠そうなどと思ったのだろう。隠す必要なんてひとつもなかった。箱の中にあるものは、すべて、一度はヨハンの手のなかにあるものだったのに。
 硬く歯を噛みしめているヨハンを静かに見て、それから、モクバはふたたび遠くを見た。海の方角には海が無数の白い波を躍らせて、今日の風が強く、明日の波は強く浜辺に打ち付けるだろうということを知らせる。
「―――あのな、ヨハン・アンデルセン」
 ぽつり、モクバはつぶやく。ヨハンは顔をあげない。
「オレの持論なんだけど、人間の子どもには、二つのものが必要だと思うんだ。……鍵をかけることができる箱と、その中身をこっそり見せて、いっしょに喜んだり悲しんだりしてくれるやさしい誰か」
 でも、そういうものがもらえない子どももいる、とモクバは言う。ヨハンは思わず顔を上げた。声にひどく苦いものがにじんでいた。
 風に吹かれる横顔の、硬質で端正な輪郭線。彼の兄の貴公子然とした風貌に似て、けれど、どこかしらが決定的に異なる面差し。
「鍵のかかる箱も、中身を喜んでくれる人も見つからなかったヤツは、上手に大人になれない。ずうっと探し続けないとなんないんだ。自分以外に開けられることのない鍵のついた箱と、その箱の中身を見てくれる誰かを、ずっと……」
 モクバは振り返る。その表情は、やさしかった。
「鍵を、十代に返してくれるよな?」
「はい」
「お前が返すよりも、オレが返したほうがいいよな」
「はい……」
 自分が情けなく、不甲斐なかった。想いが大きすぎて胸が苦しかった。そうしてヨハンは初めて気づいた。
 十代が言っていたこと……

《千本の針を飲まされたみたいに、胸が、痛い》

 もし約束を、破ってしまったら。
 うつむくヨハンの翠の髪に手が置かれた。撫でられると涙がにじんだ。胸が痛かった。胸を突き刺す針はひどく鋭く、心にまで後悔の痛みが響いた。
 どうしてオレは、大人じゃなかったんだろう。
 十代に誰よりやさしくできるくらい、大人じゃなかったんだろう。
「子どもは泣いてもいいんだぜ?」
 モクバがどこか冗談めかした声でいう。ヨハンは返事もできず、ただただ、うなずくだけだった。






 
back